受講者によるメモ
2006.10.22(日) 平成18年森下文化センター講座
「編集者が語る マンガの世界」
第五回:宮原照夫氏「少年誌の時代(少年マガジン)」

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 下記の講座を受講してきました。なんらかの参考になればと思いますので、講義中に取ったメモを公開します。なお、メモの部分は敬称略で記載します。

※あくまで私が宮原氏の話されたことをメモしているものなので、細かなニュアンスの誤りなどもあるかもしれません。参考程度にご覧いただければお思います。他の受講者の方の記録もあわせて参照されることをおすすめします。また、固有名詞などの誤りはご指摘いただければ幸いです。修正致します。


2006.10.22 木の葉 燃朗

2006.10.22(日) 平成18年森下文化センター講座
「編集者が語る マンガの世界」
 第五回:宮原照夫氏「少年誌の時代(少年マガジン)」

・昭和31年、宮原、講談社入社。配属は『少年クラブ』

・手塚治虫『ジャングル大帝』は雑誌に大きな変革を与えた作品。『少女クラブ』掲載の『火の鳥』、『リボンの騎士』など、素晴らしい作品と感じていた(宮原は当時『少年クラブ』所属)。

・桑田次郎『月光仮面』。昭和33年。テレビが先に放送。雑誌は『少年』への掲載が決まっていたが、最終的に『少年クラブ』への掲載となった。番組のプロデューサーの父が講談社に勤務していたことも関係していた。
 『月光仮面』はテレビの実写は描写に限界があった、イマイチだった。でも受けは良かった。しかしマンガは良くできていた。
 マーチャンダイジングにマンガが大きなウェートを占めた最初の作品。『鉄腕アトム』は昭和38年。

・昭和34年2月、宮原、『少年マガジン』編集部へ異動

・手塚治虫の作品。講談社が話しに行くのが少し遅れ、『少年サンデー』の専属のような形だった。『マガジン』にも手塚のクイズ形式の記事を載せたが、マンガではないので受けが良くなかった。
 昭和34年に、石森章太郎の『怪傑ハリマオ』の連載をするにあたり、手塚に相談に行った。石森は昭和30年のデビューなので、当時はまだ新人扱い。
 手塚「名前が出なければ構成をしてもいい」。表記(クレジット)は石森章太郎作品だが、実は手塚治虫構成も含まれていた。

・当時の『マガジン』は記事が重視されていた。編集者経験があるものは記事、新人がマンガを担当。週刊の連載を考えると、マンガ中心は難しかった。昭和34年に宮原記事担当からマンガ担当へ変更。
 当時はおとぎ話的なマンガが多く、ストーリー性の強いものをと考えたのがちばてつや(原作:福本和也)『ちかいの魔球』。
 この「魔球」は、当初は中日の杉下茂のようなフォークボールを考えていたが、絵にならないので新しい魔球を考えた。ボールが二つに分かれる魔球を考えたが、ちばは複数のボールを描いた。「魔球のからくりを考えているか」と質問すると、ちば、「知らん」とのことで苦労してからくりを考えた。

・『サンデー』のギャグマンガ。『おそ松くん』はすぐ終わると思っていたが、主人公のような脇役がたくさん出てきた。参った。『オバケのQ太郎』も、SFチックであり、生活的な作品だった。
 会議では、「ギャグを作らないと『サンデー』には勝てない」と言われていた。しかし、ギャグは編集者にはつくれないと考え、ストーリーマンガの『マガジン』と考えた。

・『巨人の星』。『ちかいの魔球』で考えた「リアル」を再度考える。「ヒューマニティ」が重要。人間を描かないとドラマにはならないと考える。
 梶原案の主人公名「星飛雄馬」は難しいので、「星 明(あきら)」にすべきという編集長の意見。梶原一騎も、「チャンピオン太(ふとし)」の後の作品が受けていなかったこともあり、了承した。
 しかし宮原が「飛雄馬=ヒューマン」という意味で必要だと説得し、梶原から「飛雄馬であればなお結構」との言葉を得て、最終的に編集長からも「飛雄馬」に同意を得る。あわせて、タイトルも『巨人軍の星』から『巨人の星』へ。

・『天才バカボン』。編集部でタイトル・テーマを決める「タイトルマッチ」という会議で、200近いテーマから30程度に絞り、赤塚不二夫へ。当時『マガジン』掲載の読みきり(「ジャイアントママ」・「らくガキ」)の評判がよく、連載に意欲のあった赤塚は、「30の案が全部できるマンガをつくる。任せてくれ」と言った。そしてできたのが『天才バカボン』。

・『マガジン』と『サンデー』の雑誌のカラー(方向性)の違い(『マガジン』から『サンデー』への作品の引き抜き)

1)手塚治虫『ワンダー3(W3)』。手塚曰く、『マガジン』掲載の『宇宙少年ソラン』に登場する「チャッピー」というリスのキャラクターが、自分の以前の作品に掲載されたものの盗作であり、その作品と同じ雑誌に連載できないという話。
 結局『マガジン』で六回連載した後、『サンデー』に移って連載。しかし、『サンデー』ではなく『マガジン』の体質にしかあわない作品。あまりヒットしなかった。
 なお、「チャッピー」の盗作騒動については、手塚のプロダクションにいた人が、後に『ソラン』に関わり、それが原因で起こったというのが定説になっている。

2)赤塚『天才バカボン』。昭和45年に、『マガジン』から『サンデー』に移る。赤塚曰く「優遇してくれる」。「『天才バカボン』は『マガジン』のもの。『サンデー』では受けない」と説得したが、「そんなことはない、失敗したら床に頭をこすりつけて謝る」と言い、最終的に『サンデー』へ。
 『マガジン』は『バカボン』に代わるギャグを見つけられなかったが、『サンデー』も『マガジン』から『バカボン』をはずせばよかったと考えていたふしがある。力を入れているように見えなかった。
 一年後に、赤塚より「編集部を食事に招待したい」という連絡。店に行くと、赤塚が土下座をしようとするので皆で止めた。赤塚「やっぱり『サンデー』では上手くいかなかった」。昭和47年に半年間『マガジン』で『バカボン』の連載をし、作品の最後を看取ることができた。

3)ちばてつや(原作:高森朝雄=梶原一騎)『あしたのジョー』。昭和43年から連載。44年に、ちばから食事に誘われる。「『サンデー』が原稿料を三倍出すから丸ごと『ジョー』を移して欲しい」と話があったとのこと。
 宮原「もう約束したんですか?」、ちば「内定は出した。ただ、父親に『急に作品を持っていくのはまずい。宮原さんと話をしろ』と言われた」。
 すぐに社に戻り、社長も含め会議。専務が「原稿料三倍出す」と言い、社長も了解。
 翌日ちばを説得。ちば「あれから考えて、やはり『マガジン』でやるべきだと思いなおした。原稿料は二倍でいい」。

 当時の『サンデー』は、『マガジン』が完成したものを取りにきた。

・さいとうたかお『無用ノ介』。昭和42年。
 さいとうたかおは単行本を描いていた頃はそうでもなかったが、『ボーイズライフ』に連載していたOO7の連載は良かった。その次に、賞金稼ぎが主人公の時代劇として『無用ノ介』。

・みなもと太郎『ホモホモ7』。昭和46年連載開始。
 昭和41年から45年の間、度々大阪へ行き、山上たつひこなどの新人を東京に呼んだ。みなもともその中にいた。みなもとは、冗談めかしてはいたが新人らしからぬひねた部分があった。複数の新人マンガ家たちとの話し合いの場でも反応が良くない。その後の食事の時に「今度原稿を見せて」と言ったら、その場でカバンから原稿を出した。話し合いでも出さないので、持っていないと思っていた。それが『ホモホモ7』だった。リアルな絵が崩れてギャグの絵になるところなど非常に面白いパロディーだった。
 「連載できるか?」と訊いたが、返事がはっきりしなかった。とにかく描くように言い、連載をした。しかし、受けなかった。この時、『マガジン』の読者は真面目だと思った。

・永井豪『デビルマン』。昭和47年。編集はあまり入っていない作品。
 先にテレビが決まっていて、雑誌でやって欲しいと言われた。当初は『マガジン』ではやるつもりはなかった。作品のマネージャーがきて、テレビとマンガとの違いを話したが、それでも断った。
 その翌日に永井が来たが、『デビルマン』の話が全く出ない。質問してみると、当時占いに凝っていて、今日は会社に行く前に講談社に行った方がいいとあったので来てみたという話だった。
 その時に、テレビと雑誌とのテーマの違いを永井から聞き、連載を決定した。それまでの永井作品にはないものを感じた。当時連載していた『オモライくん』を特大号への掲載にし、連載は『デビルマン』にする。
 最初にひとつだけ出した注文「生活感・生活臭を出して欲しい」。
 『デビルマン』は、連載七〜八回目のヒロイン美樹が襲われ、初めてデビルマンが登場する回が初めて一位になった。

・ながやす巧(原作:梶原一騎)『愛と誠』。昭和48年。
 中盤以降暴力団の抗争の話は知らなかった。またこの話を出す予定もなかった。これがなければ素晴らしい作品だった。
 ラストシーンは初めから決まっていた。梶原との打ち合わせで、トルストイ『アンナカレーニナ』やツルゲーネフ『はつ恋』などの話もした。梶原にツルゲーネフを読んでいることを話して驚かれた。

・矢口高雄『釣りキチ三平』。昭和48年。
 趣味を漫画化できないかを考えた。矢口は、その前にマタギの話を描いたが、受けなかった。アイデアを考えていたら、矢口が釣り好きと分かってテーマを選んだ。

・手塚治虫『三つ目が通る』。昭和49年。
 虫プロの業績悪化などで、手塚が訴えられていた時期。手塚を訪ねたら、「『少年チャンピオン』が三日前に来た」と言われた。『マガジン』がもう少し先に行っていれば、あの作品(筆者注:『ブラック・ジャック』)が『マガジン』に連載されていたかもしれない。
 そのため、『マガジン』向けのテーマがないという手塚に、「もう一度アトムをやって欲しい」と言った。デフォルメしたマンガがなくなっていくかもしれない、もう一度アトムの精神を、という話をしたら、手塚に「どうして『マガジン』がそんなことを言うの」と驚かれた。「『マガジン』は、形は劇画だが、心は区別はない」という話をした。
 一ヶ月くらい後に、手塚から電話。手塚「会ってもらえないだろうか」、宮原「いつにしましょう」、手塚「実は隣の喫茶店にいるんだ」。仕事に区切りをつけて行くと、『三つ目』のアイデアスケッチができていた。手塚「ギャグとストーリーが『ジキルとハイド』だ」。

・昭和46年頃から、『マガジン』のピンチ。『巨人の星』終了。『あしたのジョー』の休載。『天才バカボン』は『サンデー』へ。
 『月刊少年マガジン』。昭和50年。別冊から開始。
 『テレビマガジン』。昭和48年。『週刊少年マガジン』の別冊として。テレビ専門誌の必要を感じていたが、最初は会社の理解が得られなかった。60万部を超えた頃に雑誌として独立。

・『ヤングマガジン』。昭和55年。大友克洋のためにつくった。宮原は創刊一年で離れたが、その後大友『AKIRA』。1986年の映画公開時に関わる。当時はマニアックで、宮原の中学二年生の子どもが見たが分からなかったという感想だった。
 昭和63年にはアメリカでも公開したが、地方公開で終了し、ロスやNYでは公開されなかった。しかし、1992年、英訳を変更したイギリス用ビデオがヒットし、アメリカにも輸入された。

・士郎正宗『攻殻機動隊』。『ヤングマガジン』増刊に掲載。当時は児童雑誌に関わっていたが、『攻殻機動隊』はマニアックだがいける、アニメーションにしたいと考えた。1992年に映像事業局に異動になり、1993年から映画制作。1995年『GOHST IN THE SHELL〜攻殻機動隊〜』として公開。日本での劇場公開はあまり受けなかったが、1996年にアメリカの劇場・ビデオで高い評価。『ビルボード』誌で日本の映像ソフトとして初の一位。

(質疑応答)
Q.『マガジン』と『サンデー』のギャグマンガへの関わり方。『サンデー』の武居俊樹はアイデア会議などで深く関わったとのことだが、『マガジン』は?
A.『マガジン』も『サンデー』も同じ。最初の設定は赤塚が決定するが、そこにどのような人物を登場させるかは『マガジン』アイデア会議を行う。

Q.引き抜きについて。『あしたのジョー』は、梶原には引き抜きの話があったのか?
A.梶原にはなかった。後年梶原に話をしたら、冗談で「話が来ていたらいいと答えたかもしれない」と言っていた。

Q.『巨人の星』には引き抜きがあったのか?
A.なかった。ただし、『サンデー』が当時の川崎の連載を終了させないようにした。そのため、川崎が『巨人の星』は出来ない、という話をしてきた。
 しかし、飲みながら色々な話をし、「新しい作品をつくりたい」こと、「『巨人の星』は新しい作品になる」ことで意見が一致した。その後、川崎が「『サンデー』の連載終了まで三ヶ月待って欲しい」と言ってくれた。

(質問者:夏目房之介氏)
Q.ちばてつやは、『おれは鉄兵』の頃から原稿料が超A級クラスという噂があった。『あしたのジョー』の引き抜きに関する話は初めて聞いたが、ひょっとしてそこでの原稿料引き上げが要因ではないか?
A.『おれは鉄兵』は『ジョー』の後だから、おそらくそうなのだろう。また、水島慎司が『野球狂の詩』の原稿料交渉の頃に出してきた金額が、その時の金額に近かった。

Q.『デビルマン』について。以前永井本人から、「『デビルマン』のストーリーは描く前には考えておらず、描いているうちにできてきた」という話を聞いたことがある。永井が構想を話した時には、どの程度の話をしたのか?
A.具体的な話というよりは、テーマについてだった。テレビは勧善懲悪だが、マンガはそうではないというような話。
 永井は描き始める前にあまり先まで考えないタイプなので、当時はストーリーを先まで考えていたと思っていたが、あまり考えていなかったかもしれない。

Q.『AKIRA』や『攻殻機動隊』のような新しい作品を世界へ発信できると考えた根拠がどのようなものだったのか?
A.『AKIRA』は、大友が『あしたのジョー』をみて創りたいと考えた作品だと、当時の編集者から聞いたことがある。『ジョー』は、たしかに『ハリスの旋風』や『おれは鉄兵』などのちば作品で描かれなかった人間性があった。そうした点だったのかもしれない。
 『攻殻機動隊』も、サイボーグや脳の世界というテーマが新しかった。


 とにかく、現場の編集者の方でなければ体験できず、なおかつ非常に機密性の高い話が多数聞けて、すごく興味深かった。

2006.10.22 木の葉 燃朗

【参考文献】
オンライン書店ビーケーワン:実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記・宮原 照夫著『実録!少年マガジン名作漫画編集奮闘記』(2005.12,講談社)
「「巨人の星」「あしたのジョー」「愛と誠」…。企画立ち上げから海外売り込み行脚まで、漫画編集者の悪戦苦闘一代記。元『週刊少年マガジン』編集長がまとめた、経験と考察から築き上げた独自の漫画論と編集者魂」(オンライン書店bk1の紹介文)


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