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この本、差し上げます

2006.01.16 木の葉燃朗


 古書展に来る人々は、みな同じ目的を持っている。
ひとことで言えば、「本が欲しい」となる。探している本を見つけたい、誰も知らないような珍しい本を掘り出したい、今はまだ価値のない本の中から、新しい価値を自分でつくりあげたい、等々。様々な思いを持ちつつ、本が欲しいという点では共通している。
 だからだろうか。古書展に集まる人々には、同じ目的を持った者に共通する、独特の雰囲気が漂う。もちろん、年齢も外見もバラバラであるが、なんとなく同じにおいがする、と言えばいいのだろうか。あるいは、一種の怪しさが漂う、とも言える。もちろん、俺自身も外から見たらその怪しい人々のひとりなのだろうが。
 その日、五反田の古書展で見かけた三人組も、そんな「なんとなく怪しい人々」だった。服装はみなまちまちである。ひとりは白と水色のボーダーのポロシャツに、ベージュのスラックス。ポロシャツの下には、ランニングが透けている。もうひとりは、グレーの半袖Yシャツの上にフィッシングベスト。下はジーパン。ベストは、どのポケットもパンパンに膨らんでいる。そして最後のひとりは、コールテンのスーツといういでたちだった。
 しかし、三人とも室内なのにお揃いのカンカン帽をかぶっているのが、なによりも怪しさを感じさせた。
 その三人が気になったのは、外見もさることながら、先ほどからやたらと大きな声でしゃべっているからだ。本を見るのに意識の二、三割、あとはおしゃべりに夢中といったところか。どうにもその話が気になって、さっきから見ているはずのちくま文庫の背表紙が頭に入ってこない。
 気になるにもかかわらず、大した話をしていないのがまた癪に障る。曰く、「山田風太郎は文庫で復刊されているのに、この値付けは勉強が足りない」とか、「この武田百合子の全集はなかなか揃いが出ないが、俺は持っている」とか、「神保町のすずらん通りに新しくできた店の品揃えは、そこそこだ」とか。
 しかしその中で、ひとつだけ気になる話があった。話し始めたのは、ポロシャツ氏だった。
「最近、目録専門の変わった店ができたらしい」
「へえ、どんな?」
 コールテン氏がすかさず反応する。ポロシャツ氏が答えるには、
「金を取らないらしい」
「なんだそりゃ」
 とコールテン氏が驚くと同時に、
「俺もこの間聞いた。手紙書かせんだよ」
 とベスト氏。今度はポロシャツ氏が驚いて、
「それは知らねえぞ」
 その後の三氏の話を聞くに、分かったことはみっつ。
 まず、その古本屋は目録専門で、店は持っていないこと。それから、本が欲しい者は、どれだけ欲しいのかを書いた手紙を店主に送ること。そして、手紙の内容が店主の御眼鏡にかなった場合は、本を無料でもらえること。
 そんな彼らの話に聞き耳を立てながら、ずっと棚の前に立っていると、
「すみません」
 と初老の女性が声をかけ、俺の前を横切った。どうやら、隣の棚にある歌舞伎の本が見たかったらしい。俺は慌てて身を引き、それをきっかけに再び会場内を見て回り、何冊かの本を抜き出して会計を済ませた。
 その日はそれから一日中、先ほどの話が頭から離れなかった。本当かどうかも分からないが、なんだか興味深い話だった。

 五反田の古書展から二週間後。俺は久々に吉祥寺の古本屋を歩いていた。駅からぐるっと時計回りに、いつも訪ねる店を覗いて、最後になじみの古本屋、がらくた堂を訪ねた。俺は古本屋の店主と知り合いになるという経験はほとんどないのだが、この店の店主は年齢が近いこともあり、気軽に色々なことが話せる間柄である。
 店の中は、店主の趣味が色濃く表れていて、音楽・映画・笑芸の本、それからCDや一昔前の雑誌が数多く並ぶ。
 何冊かを購入し、勘定を済ませてから、いつものように取り留めのない話をする。その日は特に、チェーン店の新古書店の話題で盛り上がった。「山口瞳を女性作家の棚に並べている店があり、悲しくなった」とか、「そもそも、作家男女別で本を並べる必要があるのかどうか」など。
 そんな話も一段落ついた時、ふと先日五反田で聞いた話を思い出し、店主に質問してみた。
「ううん、そういう店の話は聞いたことがないなあ」
 というのが回答だった。
「単なる噂話ですかね」
「実在するとしても、そもそも商売として立ち行かないでしょう」
「たしかに。そうするとお金持ちの道楽とか」
「あるいは『芸術』とかね」
「芸術」
 やや意外な言葉が出てきたので、繰り返してしまう。
「芸術というか、パフォーマンスというか。目録を送って、手紙をもらって、本をあげることまで含めてひとつの作品とする、というような」
「なるほど」
 そういえば最近では、本や古本に関連するパフォーマンスやイベントも盛んに行われている。その一種かもしれない。
「でも、本が好きな人なら、あげないよねえ」
 店主がぽつりとつぶやく。
「でも、本が嫌いな人なら、そもそもあげるための本を集めることもしないですよね」
 自分も独り言のようにつぶやく。
「謎ですねえ」
「謎っすねえ」
 そんな風に考えているうち、店の中にはだんだんお客さんが増えてきた。それをきっかけに、
「じゃあ、またおじゃまします。どうもありがとうございました」
 と言って、俺は店を出た。
 謎は深まるばかりであった。

 それからしばらくの間、インターネットで件の古本屋について調べてみた。まずは「古本」「無料」「手紙」など、色々とキーワードを入れて検索してみたが、それらしき情報は手に入らなかった。
 機械的に検索するのではなく、質問に対して他の参加者が回答するwebサイトも利用してみたが、「単なるうわさです」といった根拠のない断定や、「質問のフリをして宣伝するのはやめてください」などの見当違いの回答があったのみで、まったく役に立たなかった。
 やはり、ただの作り話かもしれないと思い、これ以上調べるのはあきらめようとしていた。しかしそんなある日、吉祥寺のがらくた堂から「手紙のコピーを手に入れた」という連絡をもらった。すぐにでも店に行きたかったが、はやる気持ちをぐっと抑えて、次の休みに店に伺うことにした。

「どうも、ご連絡いただいてありがとうございます」
「いえいえ。知っている古本屋が、受け取ったことがあったんですよ。これがコピーです」
 気が急いている自分に比べ、店主は落ち着いていた。既に内容を見ていることもあるのだろう。
「拝見します」
 早速紙に目を通す。
 B5サイズのコピー用紙二枚に、びっしりと文字が書き込まれている。几帳面そうなしっかりした字だ。
「もとの手紙も、同じサイズの便箋に書かれているそうです」
 手紙は、「拝啓」に続き、「陽射しも徐々に強くなり、夏の訪れを感じさせ」という時候のあいさつ。ここまで読むと、普通に誰かにあてた手紙のようだ。しかしその次に、「今回は、次の本をご希望の方に差し上げたく」として、全部で二十冊について著者名・書名などが記されている。
「どうですか?」
 俺が手紙の内容を一通り読んだ頃、店主が言った。
「ううむ。実在することは分かったけれども、なんだか更に謎が深まった感じがします」
 問いかけにそう答えながら、俺はまだ手紙に目をやっていた。そして今度は俺が質問した。
「本の品揃えとしては、どうなんですか。例えば今回掲載されたものは」
「玉石混交、ですね」
 そう言いながら、店主は手紙のコピーに手を伸ばす。俺はそれにあわせて紙を渡す。
「ここに載っているのは、全部直木賞か芥川賞の受賞作ですね」
「ああ、そういえばそうだ」
 不勉強にして知らない作家・作品もあるが、例えば庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』や尾辻克彦『父が消えた』が芥川賞の、司馬遼太郎の『梟の城』や井伏鱒二の『ジョン万次郎漂流記』が直木賞の、それぞれ受賞作であることは俺にも分かった。
「ということは、一応本について知っている人ってことですかね」
 俺の問いかけに、
「まあ、こういう情報はインターネットでも調べられるし、受賞作一覧が載った本もありますから、本の情報を得るのは誰でも」
 との答え。続けて店主が言うには、
「気になるのは、同じ受賞作でも、本の状態がばらばらなことです」
 そして、掲載されている本について説明をしてくれた。
 たしかに手紙の説明を読むと、単行本初版の本もあれば、文庫でしばらく増刷した後の本もある。それも、受賞年度が古いものが文庫、というわけでもない。店主が言ったとおり、本の状態に一貫性がないことが感じられた。
「売るために本を集めたわけではないような気がしますね。それが私の印象。それに特に屋号もなくて、送り主は個人名だけでしょう。古本屋ではなく、個人の蔵書家じゃないかと思います」
 たしかに、手紙の送り主は「八洲 薫」という個人名だった。
「はっしゅう……」
「多分、『やしま』と読むんでしょう」
「やしま」
 しかし、その名前と手紙の文字の感じからでは、年齢や性別もはっきりしなかった。
「でも、もし古本屋さんじゃなくて、蔵書家が自分の手持ちの本を無料で配っているとしても、不思議な話ですよね」
「なんらかの理由はあるんだろうとは思いますけれどね。まあ、このコピーは差し上げますから、よかったら研究してみてください」
「いいんですか」
「ええ、私も先にコピーをいただきました。手紙にも『複製しての配布は、ご自由に』と書いてありますから」
 たしかに、手紙の最後に、複製可の旨と、「ご案内差し上げた本を手にするのにふさわしい方がいれば、皆様よりご紹介ください」とある。このコピーはありがたく頂くことにする。
 欲しい本について手紙を受け付け、ふさわしい者に無料で配布する。不思議な話だが、嘘でも噂でもなく、実在することが分かった。しかし、いったいなんの目的でこんなことをするのか、また新しい謎が浮かんできてしまった。

 それから数日後、俺は新宿のギャラリーで行われているブックカフェに顔を出した。期間限定で、コーヒーやお茶を飲みながら古本を眺め、気に入れば買うこともできるというイベントである。最近、頻繁にあちらこちらで実施されており、ブックカフェとして店舗を構えている場合もある。
 今回は、友人が運営に参加していたこともあり、遊びに行ってみた。念のため、先日もらった手紙のコピーは持参して行った。この手紙について色々な人と話ができれば、と思ったのである。
 駅を出て東口の雑踏を抜けて歩くと、大きなビルの間に会場のギャラリーの入口がひょっこりと顔を覗かせていた。中は十畳程度の広さで、壁面には本棚が並べられ、一部がカウンターになっている。会場内には椅子やテーブルも並び、十名程度のお客さんもおり、なかなかにぎわっている印象だ。客層も、若い人が多い。
 友人は、入ってすぐの棚で、本の補充と整理をしていた。
「どうも」
「おお、来てくれたんだね。ありがとう」
「なかなか板についてるね。古本屋の看板娘みたい」
 Tシャツにジーパン、エプロンという、そっけないと言えばそっけない服装だったが、一応誉めておく。
「いやあ、平日はそうでもなかったけれど、土日は結構混むね。朝からずっとこんな感じ」
「繁盛してるんだ」
「おかげさまで。とりあえずかけてよ。なに飲む?」
「じゃあ、アイスコーヒー」
 コーヒーが届くのを待つ間、棚を眺める。二十代から三十代のスタッフが運営の中心ということもあって、いわゆる文学書よりも、サブカルチャーの本や写真集・画集などが目立つ。出品者の嗜好を前面に出したコーナーもあり、横尾忠則や植草甚一の本がまとまって並んでいる。
 棚から、雑誌『宝島』の創刊したての頃の号を一冊抜き出して、ぱらぱらとめくってみる。自分が生まれる前の時代だが、なんだか懐かしい感じがする。
「お待たせしました」
「ありがとう。あれ、いいの、棚は」
「うん、だいたい終わったから」
 そう言って彼女も、マグカップを持って向かいの椅子に腰掛ける。
 しばらく、このブックカフェについての話や、最近できた書店の話などをした。そのうち、「実は」ということで、俺は彼女に例のコピーを見せた。
 じっと眺めた後、彼女はちょっとにやりとした笑みを浮かべて言った。
「これ、なあに? お芝居かなにかの小道具?」
「ああ、そういう考え方もあるか」
 それから、しばらくこの手紙に関して説明をした。
「でもさあ、実在するのかなあ、この人」
 彼女がまず言ったのは、そんな感想だった。
「なんだか、あんまり現実のものだと思ってないような感じだね」
 俺が返すと、
「実は君がかつごうとしているんじゃないかとも、ちょっと思っている」
 と、彼女は言った。
「俺がかつぐ必要なんて、どこにもないさ」
「いや、この手紙を色々な人に見せて、どんな反応をするのか知りたいとかさ、色々考えられるじゃない。それくらい、なんだか有り得ないような気がする。あ、そうだ」
 と、彼女は俺たちのテーブルを通りかかった男性に声をかけた。顔の下半分を輪郭に沿って覆うヒゲと、夏にもかかわらず頭にかぶった茶色いニット帽が印象的だった。服装もボタンダウンの長袖シャツの裾を出して、チノパンをはき、喫茶店のマスターか山小屋の主人のような風貌だった。
「こちら、このカフェの主催者の西田さん」
 彼女の紹介を受け、俺は、
「どうも、はじめまして」
 と挨拶をする。西田さんは、ちょっと意外な甲高い声で、
「ああ、どうも。ゆっくりしていってください」
 と言った。彼女はそんな西田さんを捉まえ、手紙を見せて、先ほど俺が話したのと同じ説明をする。ところどころ、俺が補足するのを聞きながら、西田さんは手紙をじっと見ていた。
「なるほどねえ」
 とつぶやいた西田さんに対し、
「どう思います。私はなんとなく作り物っぽく思えるんですよ」
 と、彼女が同意を得るように伝えた。
「メリット、だよね」
「メリット」
 俺と彼女で同時に繰り返す。
「ええと、つまり」
 と西田さんが伝える。
「この手紙を出した人が、欲しいという手紙と引き換えに本を差し上げると。そこにどんなメリットがあるのか、と思ったんですよ」
「そうすると、やっぱり『芸術』かなあ」
 俺の返事に、彼女が
「げいじゅつう?」
 と素っ頓狂な声を上げた。
「そんな大げさに驚くことじゃないよ。手紙をもらって本をあげるというパフォーマンスじゃないかって思ったんだ」
 先日、吉祥寺で古本屋の主人と話したことを思い出しながら、俺は言った。
「あるいは、本をつくろうと思っているのかもしれませんよ」
 俺の言葉を受けて、西田さんが言った。
「それって、『この本を欲しい人がこんな手紙を書きました』って本ですか?」
「あ、それはちょっと面白そう。そういう本があったら読んでみたいなあ」
 俺の返事に、彼女が嬉しそうに言葉をつなぐ。たしかに、本に関する本は数多く出版されているが、そういうアイデアはあまり聞いたことがなかった。
「その企画、ここのカフェでもやってみたいね」
 西田さんが言った。彼女も面白そうだと思ったらしく、西田さんとしばらくアイデアを出し合っていた。壁に掲示板をつくって、欲しい本についてのメッセージカードを貼る。それを見て、譲ってもいい人が値段などの条件をカフェに伝える。条件があえば、カフェを通じて本を譲る。
 新しいアイデアに夢中になっている二人の声を聞きながら、俺は手紙を見て、考えていた。がらくた堂の主人からこの手紙を頂いて以来、俺にはやってみたいと思っていたことがあった。
「俺、この人に会ってみたい」
 考えをいつの間にか口に出していた。それまでしゃべっていた二人が、話を止めて俺を見た。
「会ってくれるのかなあ」
「分からないけれど、手紙を送ってみる」
「でも、変わった人かもしれないよ」
 彼女は俺を心配させるようなことばかり言う。
「かもしれないけれど、なんとなく大丈夫だと思う。根拠はないけれど」
「古本好きに悪い人なし、か。らしいね」
「まぜっかえすなよ」
「まあ、手紙を送ることは、悪くないかもしれませんね」
 西田さんが励ますように言ってくれる。俺は、その言葉を聞きながら、これまでやってみようと思いつつ、先延ばしにしていたことをいよいよ実行しようと、決意を固めていた。

「八洲 薫 様
 拝啓
 初めてお手紙をお送りします。私は秋田秀一郎と申します。
 吉祥寺の古本屋がらくた堂さんを通じて、八洲さんのお手紙を拝見しました。
 お譲りいただけるという本も興味深いのですが、それ以上にこのような活動をされている八洲さんに強く興味を抱きました。
 ぶしつけとは思いますが、一度お会いしてお話を伺えればと思います。ご検討願えませんでしょうか。

敬具
秋田秀一郎」

 手紙を送ってはみたものの、返事が来る可能性は低いと思っていた。自分のことに置き換えてみても、いきなり「お会いしたい」は警戒されても仕方ない。それに、俺はいつも手紙を受け取っている者ではない。たまたま手紙のコピーを手に入れたにすぎない。
 それでも、もしかしたらなんらかの連絡があるかもしれないという期待と、送るのではなかったという後悔の気持ちがないまぜになったまま、一週間ほどが過ぎた。
 家の郵便受けを見ると、葉書が一枚入っていた。
「あ、返事が来た」
 驚くべきことでもあり、自然なようでもあり、不思議な気分でその葉書の文面を読んだ。手紙のコピーと同じく、丁寧な字だった。

「拝啓
 お手紙を頂戴し、ありがとうございました。私のささやかな活動に興味をお持ちとのこと。非常に恐縮しております。
 あまり面白いお話もできませんが、暇と時間はある身ですので、ご希望とあらばいつでもお声掛けください。
 なお、私の個人的な事情により、あまり遠出が出来ないため、自宅そばの町までお越しいただければ幸いです。誠に勝手ながら、ご検討いただきたいと存じます。

敬具

秋田秀一郎様

八洲薫 拝」

 この手紙を受け、俺は訪問日時を相談する葉書を書いた。できることなら、電子メールか、せめて電話ででも連絡を取りたかったが、八洲氏から送られてきた葉書には名前と住所しか記されていないため、致し方なく葉書を書いた。
 こちらから送った葉書には、電子メールのアドレスや携帯電話の電話番号を書いていたのだが、やはり返事は葉書だった。二十一世紀とは思えないようなのんびりしたやりとりを経て、俺は八洲氏に会うために、荒川区日暮里に向かうことになった。

 五反田の古書展に始まり、吉祥寺の古本屋、新宿のブックカフェを経て、日暮里へ。東京都内をひらがなの「つ」の字を逆に書くように、手紙の主に出会うため、ちょっとした旅をしたような気分だ。
 しかし、普段阿佐ヶ谷という新宿よりも西に住んでいる者にとっては、日暮里というのはなかなか行く機会がない町だ。思い出してみても、訪ねた記憶が思い浮かばない。東京の東側というと、もちろん神保町には時々行くが、そこから東は町の位置関係もあやふやになってしまう。今回路線図を見てみて、上野と浅草が意外と近いことなどにちょっと驚いた。
 JRの中央線と山手線を乗り継いで、日暮里まで向かう間、そんなふうに色々なことをぼんやりと考えていた。おかげで、読んでいた文庫本の内容はあまり頭に入らず、二、三ページを読んだ程度だった。
 駅を出て、指定された喫茶店に向かって地図を見ながら道を歩く。どうやら、地名でいうと谷中とか千駄木のあたりのようだ。しばらく歩いて、商店街と住宅街の境のあたりにある、昔からあるような感じの喫茶店へ入る。谷中や千駄木、根津というと、散策などを目的に人が集まる場所でもあるが、この店は地元の人が多く利用する店のようだ。ただ、一見の客にとっても居心地がよさそうな雰囲気である。待ち合わせである旨を告げて、テーブル席に座らせてもらった。
 アイスコーヒーを注文してから、最後にもらった葉書を取り出す。本日午後二時、この喫茶店での待ち合わせで間違いなし。もう何度も確認しているのだが、そわそわしてまた葉書を見てしまう。まだ約束の時間まで十五分くらいあるのだが、商店街をぶらぶらする気にはなれず、駅からまっすぐ店まで来てしまった。店内で落ち着いて本を読む気にもなれず、ぼんやりと見るともなく店内を眺める。
 そもそも、どんな話をするかだって、きちんと決めているわけではない。相手がどんな人なのか、今の段階でもまだ分からない。こちらが知っているのは「八洲薫」という名前と、「本を欲しい人から手紙を受け取り、無料で配布している」ということだけ。思えば、新宿のブックカフェで友人が言った「古本好きに悪い人なし」という言葉のとおり、根拠のない八洲氏への信用と、五反田で聞いた噂話を追いかける好奇心だけで、ここまで来てしまった。我ながら「なにやってるんだ」という気持ちと、なんとなくわくわくする気分がないまぜになっていた。
 やがてやってきたアイスコーヒーを、ブラックのままで一口飲む。渋みや苦みが強すぎず、かといって味が薄いわけでもない。個人的には非常に好みの味だった。チェーン店のカフェのコーヒーとは違う、独特のうまさを感じた。
 随分待っている気がするが、実際はそれほど時間が経っていないのだろう。時計はあえて見ないようにした。窓の外の風景を、なんとなく眺める。平和そうな町の風景が見える。次に引っ越すときは、こういうところで暮らすのもいいかもしれないと思った。
 そんな風にぼんやりしていたら、店の入口が、カランコロンと音を立てた。続いて入って来たのは、まだ二十代だろう、若い女性だった。近くの人らしく、店の人と言葉を交わす。そして、俺の方を見た。
 ちょっと、意外だった。名前が「薫」なのだから、女性であってもおかしくないとは思ったが、手紙の文字や文章で想像したよりずっと若い。違った意味での緊張が高まってきてしまった。
「秋田さん、ですか?」
「ええ、そうです」
 俺は席から立ち上がる。すると、そこにいたのは先ほどの女性、ではなかった。
「はじめまして、八洲です」
 少しかすれ気味だが、しっかりした声がした。その声の主は、年配の男性であった。
「あ、どうぞおかけください」
 俺がわざわざ言うことでもないのに、動揺して言ってしまった。しかし氏は特に気にするでもなく、
「じゃ、失礼して」
 と言って、俺の向かいに腰掛けた。その氏に対し、
「それじゃあ、帰るときは電話ちょうだいね。迎えに来ますから」
 と、先ほど最初に店に入ってきた女性が言い、俺に軽く会釈をしてから店を出て行った。
「いやあ、孫でして。最近はちょっと外出するにも心配して誰かがついてこようとする。まだそんな歳じゃないんですがねえ」
「はあ」
 つまり、さっき最初に店に入ってきた女性は、八洲氏の付き添いのお孫さんであった。店までの送り迎えに来たのである。俺はあわてて、彼女の後に氏が続いてやって来たのを、見ているようで見ていなかったというわけだ。ただでさえ初対面なのに、随分としどろもどろになって不審な印象を与えてしまったかもしれない。
「あ、私はホットコーヒーちょうだい」
 店員さんに声をかけてから、
「いや、わざわざ遠いところまでご足労を」
 と、八洲氏は軽く頭を下げた。
「いえ、私の方こそ、ぶしつけなお願いを聞いていただき、ありがとうございます」
 と、俺も頭を下げる。三十歳近い俺と、老人といっていい外見の氏のふたりが、喫茶店でお互いに頭を下げあう風景は、他の人にはどう映るだろう。そう思うとちょっと変な気分になりながら、俺は頭を下げていた。
「しかし、初めてこのお手紙を拝見したときには、驚きました」
 俺は持ってきた手紙のコピーを取り出しながら、言った。
「そうですか。しかし、あなたのように見ず知らずの方が手紙をご覧になって、興味を持ってくださったというのは初めてですよ」
「そうでしたか」
「時々、偶然手紙を見た方から本を譲って欲しいという手紙は頂きますがね。純粋な好奇心から連絡をしてくださったのは秋田さん、貴方が初めてですよ」
「はあ、ありがとうございます」
 お礼を言うべきところなのか分からなかったが、とっさに答えた。
「でも、どうしてご自身の蔵書を?」
「いやあ、三途の川を渡るための準備ですよ」
「そんな、まだまだお若いのに」
「なに、気持ちでは若い若いと思っていますし、家族にもそう言っていますが、もう米寿を越えていますからな」
 はじめ「ベージュ」と聞いて、なんのことだろうと思ったが、すぐに「米寿」であることに気がついた。
「すると、失礼ですが八洲さん、お年は」
「当年とって八十九歳。来年は卆寿ですよ」
 それを聞いて驚いた。せいぜい七十代くらいだろうと思っていた。それくらい、歩き方も話し方もしっかりしているのだ。家族がちょっとした外出にも心配するのも無理はない。
「私もこれまで随分と色々な本を集めてきましたが、冥土には持っていけない……。あ、じじいのつまらん昔話になりますが」
「いえ、ぜひお聞かせください」
 それから八洲氏は、本を譲る手紙を送るようになったいきさつを順番に話してくれた。若い頃は、戦争もあり、不況もあり、高度成長期もあり、その中で懸命に過ごしながら、いつかはしっかりとした勉強をしたいと考えていたこと。会社を定年退職してから大学に入学し、日本史を学んだこと。同時に様々な本を読み、徐々に蔵書が増えていったこと。その後地域の市民大学に講師として参加し、読書を趣味とする他の人々と知り合いになったこと。
「しかしねえ、本というのは、コレクションの中でもあまり理解されない」
「そうかもしれません」
「この歳になると、先立つ友人も増えてきました。彼らの蔵書の扱いというのは、傍から見ていても、惨めですな」
「みじめ」
「ええ。家族には、なかなか集めた本について理解されない。疎ましく思っている者がほとんどでしょう。だから亡くなった際の蔵書の整理といえば、よくてもテレビでコマーシャルをやっているような古本屋にまとめて渡してしまう」
 おそらく八洲氏は、新古書店のことを言わんとしているのだろう。
「ひどい場合は、ごみに出されてしまう。これが一番いけない」
「たしかに、古本屋さんに持っていってもらえば、まだ他の人に渡る可能性がありますからね」
 ここまで話を聞いて、八洲氏の行動のわけが分かった。
「私も、いよいよとなったら、遺書を書こうかと思っています。しかしできれば、今のうちに必要な人に本をお譲りしておきたい。本が新しい方の手に渡るのを、見ておきたいのです。よくよく考えれば、自己満足とおせっかいですがね。家族にも半分呆れられていますが、年寄りの道楽として許してもらっていますよ」
「そんな、素晴らしいことだと思います」
 八洲氏に会うまでは、どうしても「本が欲しいという思いを書いた手紙と引き換えに、その本を譲る」という行為の理由が謎だった。パフォーマンスだとか、手紙を集めて本をつくるだとか、「なんのために」ということばかり考えていた。
 しかし、八洲氏のような考え方もあるのだと知ると、自分のこれまでの想像力の乏しさが恥ずかしくなった。
「こんな話を改めて他の人に話したのは初めてなので、なんとも恥ずかしい気分ですよ。すみませんね、こんな話で」
「いえ、非常に興味深いお話です」
 俺はそう言って、すっかり氷が溶けてしまったアイスコーヒーをすすった。
「ところで八洲さん、ふたつお願いがあるのですが」
「なんでしょう。この私で出来ることであれば」
「ひとつは、私も八洲さんのお手紙を頂戴したいんです」
「それは、もちろん。喜んで」
「それから、もうひとつは、八洲さんとお会いしたことを、文章にして発表できればと考えているんです」
 これは、俺も八洲氏に会うまでは話をするかどうか迷っていたことだった。はじめに手紙の話を噂として聞いたときから、俺はこの話を文章にしてなんらかの形で発表できればと考えていた。ただ、途中まではあくまで噂の段階だったため、事実をそのまま紹介するのか小説のエピソードに使うのか迷っていた。そして手紙が実在することが分かってからは、手紙を出している人に実際に会ってから、どうするか決めたいと思っていた。
 そして今日、八洲氏に会い、話をして、この人なら理解してくれるのではないかと考え、思い切って聞いたのであった。
 それから、たどたどしくではあるが、自分が伝えたいことを話した。自分は今会社員をしており、プロとして文章を書いたことはないこと。しかし学生時代から趣味で小説を書き、今はインターネットのホームページに掲載していること。ありのまま書かせてもらうのが難しい場合は、小説の題材のような形でも八洲氏の活動を紹介させて欲しいこと。
 八洲氏はゆっくりとその話を聞いてくれ、最後に、
「秋田さん、あなたの考えは分かりました。恥ずかしながら、形にしていただければありがたいと思います」
 との返事がいただけた。
「ありがとうございます。いつになるか、いいものになるかもまだ自信がありませんが、頑張ります」
 俺はそう答えた。その言葉をきっかけに、
「では、そろそろ孫の奴がうるさそうな頃合ですから、ちょっと連絡を」
 と八洲氏が言い、店員を呼び、自宅へ電話をしてもらえるよう伝えた。いつものことなのだろう、店員も電話番号などを確認するまでもなく、電話機の方へ歩いていった。
「あ、そうそう。せっかく遠いところを来られたんですから、」
 そう言って、八洲氏は一枚の紙を取り出した。
「よかったら、どうぞ。この辺りの古本屋です。いい店が多いですから、時間があったら寄ってみてください」
 そう言って渡されたのは、おそらく八洲氏が自ら作ったのだろう、この町の古本屋が記された手書きの地図のコピーだった。
「ありがとうございます。今でも、古本屋には行かれるんですか」
「さすがに、回数は減りましたが、古本を買うのは病気のようなもので」
「病気、ですか」
「これは一生治らないかもしれませんな。蔵書を人に譲りながら、やはり欲しい本があると買って読んでしまう。これは立派な病気でしょう」
 そういって八洲氏は笑った。

 そんな出会いがあって以来、八洲氏からは定期的に手紙を頂き、俺からも手紙を書いて何冊かの本を頂戴している。あの時書くといっていた文章も、なかなか書き上がらなかったが、ようやく形になりそうだった。まずは八洲氏に読んでいただき、承諾がもらえれば、毎年開催されている「古本小説大賞」に応募しようかと考えている。
 題名は、シンプルに「この本、差し上げます」でどうだろうか。


後記
 本文中にもあるが、2005年の「第五回古本小説大賞」に応募した小説。結果は、箸にも棒にもかかりませんでした。実際のところ、必ずしも古本をテーマにしたフィクションが求められていたわけではなかったのです。それを理解しきれなかった俺の勉強不足でしたね。
 しかし、せっかく書いたことですし、ここに恥を忍んで公開します。

(2006.1.16)木の葉燃朗



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