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イミテイション・デイドリーム


六月十五日 くもり空でちょっと寒い
 なにから書き始めたらいいのかわからない。自分の中でも、なにがなんだかわからない。でも、書いていれば思い出すことやわかって来ることもあると思う。だから、とにかく自分に起こったこと を書いていこうと思う。
 ぼくは今、病院にいる。しかも精神科だ。ここに入院した原因は、今から一週間前に起きた。
 目が覚めたとき、いつもと雰囲気が違うことがある。そんなときは、だいたい自分の部屋じゃないところで寝ている。例えば電車の中で寝ていたときや、講義の最中にいねむりしていたとき。そこで目が覚めると、自分がどこにいるのかわからなくなる。あのパニックになるような感じは、い つも変わらない。
 でも、あの日はそんな単純なものじゃなかった。

 目が覚めるとベッドの上にいた。それなのに、なにか落ち着かなかった。全部がいつもと違っていた。まず初めに感じたのは、布団の手触り、それから部屋全体のにおいだった。そのとき初めて、「ここ、どこだろう?」と思った。
 まわりを見て、そこが自分の部屋じゃないことに気がついた。本とがらくたがいっぱいの、ごちゃごちゃだけど安心できるぼくの部屋じゃなかった。だからはじめは、酔ってだれかの家に押しかけたんだと思った。
 それで、意識をはっきりさせようとして頭をぶんぶん振ったのを覚えている。そのときに自分の髪の毛がほおに触った。あわてて髪を触ると、今までにないほどの長さになっていた。すぐに鏡をさがした。部屋の隅に大きな姿見があった。

 そこにいたのは、ぼくじゃなかった。
 高校生か、中学生くらいの女の子だった。見たこともない子だった。うすいピンク色で、ちょっとぶかぶかのパジャマが印象に残っている。でも、そこからはあまりよく覚えていない。部屋を飛 び出して、誰かに大きな声でなにか言った気がする。次に気がついた時には病院のベッドだった。真っ白な天井を見て、なんとなく「ああ、病院だ」と思った。

 あれから一週間たったが、いまだになにがなんなのかわからない。ただ、ひとつだけ間違いないことがある。
 ぼくの本当の名前は上江戸幸人。二十歳の大学生だった。少なくとも十日前までは。

「美穂、リンゴ、食べるでしょ」
「うん、ありがと」
 いま、ぼくの目の前で丁寧にリンゴの皮をむいているのは、この子の母親だ。時園美穂、それがこの子(つまりは今のぼく)の名前だ。ぼくは今、記憶喪失ということで入院している。当然だろう。ぼくには、上江戸幸人としての二十年間の記憶しかない。時園美穂としての十七年間 の記憶は、ぼくにはない。
 ある朝起きたら、別の人間になっていた…。そんな物語は、世の中にあふれかえっている。そして、そのほとんどが喜劇である。理由は簡単だ。主人公が別の人間として生きていくこと に、なんの疑問も感じていないからだ。だが、それはそんなに簡単じゃない。ある朝突然別の人間になっていて、それを誰にも知られずにごまかして生きていくなど不可能だ。自分が経験 してみて、そのことがよくわかった。
「おかあさん、ごめんね」
「…? 突然どうしたの?」

 ぼくは、彼女のことを「おかあさん」と呼ぶようになっていた。それだけでも、彼女が安心すると思ったからだ。娘が記憶喪失になった親の気持ちは、ぼくには想像しきれない。でも、そのショックは大きいだろう。美穂が入院した初日、彼女の両親の驚きと悲しみはぼくに罪の意識を 感じさせるほどに強かった。
 特に母親は、入院翌日からほとんど彼女につきっきりになった。表面には出していなかったが、彼女の「娘を取り戻したい」という思いは、痛いほど伝わってきた。
「ごめんね。おかあさんこんなにやさしくしてくれるのに、まだおかあさんのこと全然思い出せなくて。でもね、はやく思い出せるようにわたしがんばるから…」
 ほとんど独り言のようにつぶやいていたぼくを、彼女は強く抱きしめ、言った。
「美穂にやさしくするのは当たり前じゃない。大事な娘なんだもの。それに、そんなにあせらなくてもいいのよ。ゆっくりでも少しづつ思い出していけば…」
「うん」
 彼女に抱きしめられながら、ぼくは自分の母親のことを思い出していた。ぼくの母親は、ぼくが高校に上がる前に病気で死んでしまった。小柄だけど明るくて、いつも元気な人だった。でも、ある日突然家で倒れて、そのまま運ばれた病院で亡くなった。 美穂の母親も、ぼくの母親になんとなく雰囲気が似ていた。彼女のそばにいると、「このまま時園美穂として生きて行くのもいいかな」と思うことが時々ある。

六月二十日 なんだか眠れないのでまた日記を書く
 夕方、母親と入れ替わるように美穂の父親がやってきた。父親は、寡黙な人だ。十代の娘に対する父親の態度というものは、そんなものなのかもしれない。でも今日は、ぽつりぽつりと、昔の思い出を話した。美穂が生まれたときのことや、美穂が幼い 頃の思い出を、少しずつ語っていた。そこからは、父親も母親と同じように美穂の記憶を取り戻そうとしていることが感じられた。
 美穂の両親を見ていると、ぼくは自分が時園美穂という女の子をさらってしまったような、そんな罪悪感に襲われる。本当は、はやくこのからだを時園美穂に返してあげて、ぼくも上江戸幸人に戻りたい。
 でも、ひとつ不安なことがある。
 上江戸幸人は、どこでなにをしているのか?

「ごめん、まだ思い出せなんだ…」
「そうか。私、美穂の親友なんだよ」
 入院生活は、医師の問診と、お見舞いに来てくれる人に会うことで過ぎていった。たくさんの人が訪ねてきてくれたが、ぼくにとっては知らない人ばかりだった。今目の前にいる「時園美穂の親友」という彼女、悠美も、ぼくにとっては見ず知らずの女の子だった。
「美穂…、もしかして、私たちが悪かったのかな」
 悠美がぽつりとつぶやいた。
「どうしたのよ、突然?」
「うん、私にはさ、病気のこととかわかんないよ。でもさ、美穂が私たちのこと忘れちゃったのって、私たちのことが嫌だったからなんじゃないかって思ってさ…」
 そう言ったきり、彼女は黙ってしまった。
「違う、違うよ!」
 自分でも意外なくらい大きな声で、ぼくは言った。そして思わず彼女の手を握りしめた。
「ごめん、私、まだ悠美のことも、家族のことも、自分のことだって思い出せない。でも、絶対みんなのこと嫌いじゃないと思う。だって悠美が来てくれてうれしいし、みんなにも心配してもらっ て、早くもとの自分に戻りたいと思っているよ。もしも、私が悠美のこと嫌なように思えたら、ごめん…」
 自分でも意識せずに、ぼくは涙をこぼしていた。悠美も泣いていた。
「…私こそごめん。一番つらいのは、美穂だもんね」
 ぼくと悠美は、しばらくなにも言えずに手を握りあっていた。しかし、ぼくは心の中で、不思議な気持ちでいた。さっき一度にまくし立てた言葉は、いったい誰の言葉だったのだろう。ぼくはあくまでも上江戸幸人だ。時園美穂のふりはしていても、時園美穂じゃない。だとすれば、さっ きのような言葉はとっさに出てこないはずだ。この体の中のどこかに、時園美穂の心が隠れているのだろうか…?

上江戸幸人 様

 お元気ですか。あなたは今、どこでなにをしていますか。私はあなたを探しています。私が誰かは、あなたにならわかってもらえるはずです。お願いです、あなたがどうしているかだけでも教えて下さい。

もう一人の上江戸幸人

六月二十三日 一日中冷たい雨が降り続いた日
 上江戸幸人が、見つからない。
 悠美が来てくれた次の日、ぼくは自分の住んでいた住所に手紙を書いた。しかし、宛名に行き当たらずに、手紙は戻ってきた。実家にも手紙を送ったが、やはり宛先不明で戻ってきた。
 今日は電話をかけた。ぼくが一人暮らしをしていた家、ぼくの携帯電話、そして実家。いずれも、上江戸幸人には行き当たらなかった。家の番号は、両方とも「おかけになった電話番号は、現在使われておりません」という無機質な女性の声が返ってきた。ぼくはあの声が、昔から怖か った。そして携帯電話から返ってきたのは、聞き覚えのない女性の声だった。
 あとは、実際に会いに行くしかない。しかし、上江戸幸人は東京に住んでおり、実家は石川県にある。そして、時園美穂が入院しているこの病院も、美穂の住む家も、長野県にある。到底会いに行くことは出来なかった。それ以前に、記憶喪失の十七歳の女の子が外出できるはずもな い。
 もしかしたら、上江戸幸人は死んでしまったのかもしれない。しかし、そうだとすると、ぼくは誰なのか?
 「自分」って、なんなんだろう。ぼくは、自分のことを上江戸幸人だと思っている。外見がどこから見ても時園美穂であっても、中身は上江戸幸人だ。でも、「自分が自分をなんだと思っているか」なんて、関係ないのかもしれない。周りの人から「記憶喪失になった時園美穂」と思われてい るのであれば、それがぼくなのかもしれない。
 でもそうしたら、ぼくの持っている上江戸幸人としての記憶はどこから生まれたんだろう…。
 なんだか、出口はおろか入口さえない迷路に放り込まれてしまったようだ。歩いても歩いても、どこにもたどり着けない。ただ不安な気持ちで見知らぬ世界をうろうろする。そんな気持ちになる。
 もう今日は寝よう。

 自然に、目が覚めた。そこにあったのは、今となっては見慣れた白い天井ではなく、真っ青な空だった。
「いい天気だなあ…」
 のんきにそんなことを考えてから、
「あれ? わたしはなんでこんなところにいるんだろう」
 と思った。そう思うと同時に、ゆっくりとからだを起こす。すると、見えてきたのはどこまでも広がる草原だった。
「うわあ、すごい」
 思わずつぶやくほどの光景だった。はるか遠くの地平線まで、見渡せる一面が緑の草原に覆われていた。世界は、緑と青だけでできていた。
「こっちにおいでよ、美穂ちゃん」
 ふと、後ろからわたしを呼ぶ声がした。
「あなた、だれ?」
 わたしの後ろには、草原には不釣合いなテーブルと椅子が並べられていた。そして、そのそばに一人の男の人が立っていた。男の人といっても、多分それほど大人じゃない。
「まあまあ、ひとまずそこに座って、いま紅茶を入れるから」
 にこにこしながら、男の人は言う。そしていそいそと準備を始めた。
「あの…」
 言いかけたわたしをさえぎって、
「そうそう、美穂ちゃんはレモンとミルク、どっちがいい。それともストレートにする?」
 と、男の人は聞いてきた。
「あ、ミ、ミルクで」
 そう言って、わたしは椅子に腰掛けた。そして、
「あ、あの、わたし、聞きたいことがいっぱいあるんです。ここ、どこですか? わたしはどうしてここにいるの? それに、あなたはだれ?」
「はい、ミルクティー。飲んでごらん、あったかくておいしいから」
 男の人は、わたしの質問に答える代わりに、わたしの前に小さなティーカップを置いた。そこから立ち昇る湯気と香りがあまりにおいしそうだったので、無意識のうちにカップを持ち、一口飲んだ。
「おいしい…」
 思わずつぶやいた。ミルクティーを飲んだとたん。さっきまでの不安やわからなかったことが、どこかに行ってしまったようだった。
「さて、落ち着いたところでひとつずつ話してあげよう」
 男の人も自分のカップに口をつけて、話し始めた。
「まず、君は、時園美穂だ」
 先ほどまでよりも少し強い口調で、彼は言った。
「ときぞの、みほ」
 ときぞの、みほ。そういえばさっきから、彼は私を「美穂ちゃん」と呼んでいた。その名前は、記憶のどこかにあった。でも、はっきりとは思い出せなかった。私の名前だと言われればそんな気もするし、そうでない気もする。
「そしてここは、君の夢の中だ。だから、君がここにいても不思議じゃないね」
 そういった後、彼はもう一口紅茶を飲んだ。
「そして、ぼくは上江戸幸人」
 カミエドユキヒト。かみえど、ゆきひと。かみえどゆきひと。
 …上江戸幸人!
「見つけた! あなたが!」
「そう、でも落ち着いて考えてごらん。少しずつ思い出してきたみたいだから」
 その後、しばしの沈黙があった。二人とも、カップに手をつけることもなく、じっと考えていた。
「わたしは、わたしはずっとあなたを探していた」
「うん、そうだね。でも、それはどうして?」
「それは、わたしは本当はあなただから。本当は上江戸幸人なのに、ある日目が覚めたら時園美穂になっていた。だから、わたしは上江戸幸人に戻りたい!」
 幸人は、私の言葉を聞いてなにかに納得したようだった。そして、ゆっくりと言った。
「君は、時園美穂なんだよ。外見だけじゃなくて中身も」
 それに答えようとした私をさえぎって、彼は続けた。
「君は今、『時園美穂のからだ』に『上江戸幸人のこころ』が『乗り移って』いると思っている。ここまではいいかい?」
「うん、そうだよ」
「でも、その『上江戸幸人のこころ』『上江戸幸人の記憶』も、全部、『時園美穂のこころ』が作ったものでしかない」
「でも…」
「証拠がある。今こうして、ぼくと君が話していることがその証拠だ。ここは君の夢の中。それはつまり時園美穂のこころの中でもある。もしも君が本当に上江戸幸人なら、ここでは君は上江 戸幸人として存在するはずだ。でもそうじゃない、君は自分のこころのなかでも時園美穂でいる。
 それに、上江戸幸人はこの世の中のどこにもいなかった。それは当然だよ。本当にどこにもいないんだから。上江戸幸人は、君が想像した存在でしかない」
「やめて!」
 わたしは自分でもびっくりするほど大きな声で叫んでいた。
「そんなこと言わないで。そうしたら、わたしはこれから時園美穂として生きていかなきゃいけないじゃない。そんなの嫌だよ、怖いよ!」
「そうだね。怖いね」
 そう言うと、上江戸幸人はわたしをそっと抱きしめた。いつの間にか、彼は隣にいた。でも、嫌ではなかった。父か兄の腕の中にいるような、そんな気分だった。
「わたし、怖かった」
 自然に、自分の不安を打ち明けていた。
「いろいろ、怖かった。受験のこともあったし、自分がなにをやってもうまくいかないような気もしたし。家族もまわりのみんなもやさしかったけれど、でも本当はみんなわたしのことなんかどうでもいいんじゃないかって思ったこともあったし」
 まるで子どものように素直に、自分の思いを話し続けた。彼はわたしをやさしく抱いたまま。わたしの話に黙って耳を傾けてくれた。
 わたしの言葉が途切れると、彼は言った。
「自分が自分として生きていくのは、大変なことだ。逃げ出したくなる時もある。だから君はぼくをつくったんだ。でも、どんなに大変でも、つらいと思うことがあっても、時園美穂は時園美穂として生きていかなきゃならない。時園美穂にとって大切な人はたくさんいるし、時園美穂として の楽しいこと、嬉しいこともたくさんある。これまでも、これからも。 時には空想の世界で遊ぶのもいいと思う。ぼくはずっとここにいるから、つらくなったらいつでもおいで。でも、ずっとここにはいられない。いまは戻らなきゃ」
 彼の言葉が、不思議な説得力を持ってわたしに響いてきた。
「わかった。そうだね。そうなんだね。わたしは時園美穂だったんだ。そうだ…」
 そして椅子から立ち上がった。
「ありがとう。また、会えるよね?」
「ああ。君が会いたいと思えば、いつでも会えるよ」
 そう言って、彼は私の頭をぽんぽんとたたいてくれた。その途端、眠りに落ちるような、それでいて夢から覚めるような不思議な気分になっていった。
「じゃあね。また、会おうね」
 彼に届くかはわからなかったが、自然にそんな言葉が口をついて出ていた。

 目を開けると、そこには白い天井が広がっていた。見慣れていたはずの光景が、新鮮に見えた。大げさに言えば、新しい人生が始まった気がした。
「ときぞの、みほ」
 小声でつぶやいてみる。自分の名前だという安心感があった。何度も自分の名前をつぶやくうちに、色々なことを思い出してきた。子どもの頃のこと、最近のこと、そしてこれからの自分の こと。
 そんなことを考えていたら、自分にまとわりついていたもやが晴れていくような気分になった。 今日は、父と母が二人で来てくれるはずだ。そうしたら、なによりも真っ先にこう言おう。 「私、思い出したよ」って。

―― 完 ――


あとがき
 この小説のアイデアは、ずいぶん前から考え続けていました。しかし、自分でもどういう話にしたらいいか悩んでいるうちに、なんだか小説そのものが書けなくなってしまいました。
 でも、久々に小説を書き上げてみて、単純に書くことが楽しいと思いました。これを機に、また少しずつ書き出していこうと思います。
 小説の内容は読んでいただいたとおりですが、なんともまとまりがない話になりました。心理学についてもう少し勉強すれば、それなりに説得力のある話になったのかもしれませんが。 まあ、ある種のファンタジーとして楽しんでもらえればと思います。この物語を膨らませていけば、別の物語が生まれるかもしれません。もしそうなれば、その時にお披露目するということで。



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