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ほんの小さな物語

2009.07.27 木の葉燃朗


 大学生の頃に書いた小説。その後知人のwebサイトに載せてもらったこともある。
 これはそのwebサイト掲載版とほぼ同じ。正確な年代は記憶していませんが、2000年から2001年頃のものだと思います。


 駅前の商店街をちょっと歩くと、間口の小さな店がある。店の前に大型の乗用車でも止まると、店が隠れてしまう。店の名前を「本田堂書店」という。名前のとおり、本屋である。ただし、そこには一度誰かの手を経由した本が集まって来る。
 本田堂は「町の古本屋」だ。だから、神田神保町に置いてあるような高価な本はほとんどない。ここにあるのは、人から人へと渡り、何度も繰り返し読み継がれる本だ。そんな本たちが、次に手に取ってくれる人を待ち続ける場所、それが本田堂。このような店は、なくてもいいのかもしれない。でも、自分の住む町にそんな古本屋が一軒もなかったら、それは寂しい。

 本田堂は、一組の夫婦、本田秀太郎さんと幸子さんが経営している。秀太郎さんは、三十歳の時に勤めていた製鉄会社を辞めて、店を開いた。今なら脱サラと呼ばれるのだろう。だが当時は、親類からも会社の同僚からも、随分と白い目で見られた。店が軌道に乗るまでは、経済的にも苦労した。既に妻子持ちだった秀太郎さんは、必死に働いた。幸子さんも、内職をして店を支えた。
 そんな風に苦労して三十年がたった。ともに還暦を迎えた二人は、おしどり夫婦と言われている。子どもも一男一女に恵まれ、二人とも独立した。どちらも店は継がないようだが、秀太郎さんはそれでもいいと思っている。自分は好きでこの店を始めた。だから継ぎたくない人間に後を任せたくはない。秀太郎さんは、自分が死んだ後のことはどうでもいいと思っている。ただ、長年連れ添った幸子さんを後に残したくはなかった。だが、人の生死は運命が決めること。いつ誰が死んでも仕方ない。年を重ねるにつれ、秀太郎さんはそんなふうに考えるようになった。
 幸いなことに、秀太郎さんも幸子さんも、心身ともに健康だ。勤め人は、退職した途端に元気をなくしてしまうことが多い。しかし二人は、今も現役で働いている。生活には張りがある。もちろん、それは仕事のためだけではない。

 十年前に、初孫ができた。「五十でおじいさんだよ」と秀太郎さんは照れたように言っていた。しかし、その顔は嬉しそうだった。もちろん、幸子さんも大喜びだった。息子夫婦、娘夫婦は、隣町に住んでいる。店は継がなかったが、二人とも両親のそばにいたかった。もちろん、秀太郎さんも幸子さんも、子どもには近くにいて欲しかった。それに、やはり孫はかわいい。だから、いつでも孫に会えるのは嬉しかった。
 孫娘は、晴子ちゃんといった。この子は、おじいちゃん・おばあちゃん子で、いつも店に遊びに来ていた。晴子ちゃんの両親、つまり秀太郎さん・幸子さんの長男夫婦は、共働きだった。だから彼女は、小学校に上がると毎日のように店に遊びに来ていた。晴子ちゃんは、幼い頃から本に囲まれて過ごしていた。「三つ子の魂百まで」とも、「門前の小僧習わぬ経を読む」ともいう。晴子ちゃんは、すっかり本が好きな子どもになっていた。おそらくこれからも、本を愛する人間になるのだろう。もしかしたら、晴子ちゃんが店を継ぐかもしれない。しかし、未来のことは誰にも解らない。

 六月下旬、梅雨の晴れ間の午後。その日も、晴子ちゃんは本田堂に遊びに来た。
「こんにちは、おばあちゃん」
 その日は、幸子さんが店番をしていた。
「あら、晴子ちゃん。よく来たね」
 晴子ちゃんは、古本の匂いが好きだった。古本は黴臭いといって嫌う人間もいる。たが、そこには様々な時代の空気が閉じ込められている、と言ったら言い過ぎだろうか。いずれにせよ、晴子ちゃんは店先よりも奥の書庫のほうが好きだった。書庫には、まだ店に出る前の本が山のようにある。そんな古本の迷路の中で遊び、本の匂いを感じとる時間は、彼女にとって何物にも代え難いものだった。
「おじいちゃんは奥にいるの?」
「ええ、そうよ。それから、冷蔵庫の中に水ようかんがあるから、後でお食べなさい」
「はーい。ありがとう」
 晴子ちゃんは本棚の間をくぐり抜け、書庫へと向かう扉を開けた。

「おじいちゃん、こんにちは」
「おお、晴子ちゃんかい。よく来たね」
 秀太郎さんも、幸子さんも、晴子ちゃんが来ると必ず「よく来たね」と言う。晴子ちゃんには、それがなんだかおかしかった。晴子ちゃんはそれを真似して、友達が遊びに来た時に「よく来たね」と言う。友達はみんな、「それ、なんか変だよ」という。でも、晴子ちゃんは気に入っている。
「おじいちゃん。また本をきれいにしているの?」
「ああ、そうだよ」
 秀太郎さんは、本の表紙を乾いた布で丁寧に拭いていた。それでも汚れのひどい本には、軽く消しゴムをかけてきれいにする。また、あまりに古い本の場合は、小口に紙やすりをかけることもある。
 晴子ちゃんは前に、秀太郎さんに、「どうして、おじいちゃんはここの本をみんなきれいにするの?」
 と尋ねたことがある。その時、秀太郎さんは次のように答えた。
「晴子ちゃんは、朝、学校に行く前に、顔を洗うだろう」
「うん。いつも、顔を洗って、歯を磨いてから行くよ」
「それは、どうしてだい?」
「うーん。だって、汚い顔やぼさぼさの髪の毛で友達に会うのは、恥ずかしいもん」
「そうだね。人は、他の人に会う時、きちんと顔を洗う。大人の女の人は、化粧をするし、男の人は、ひげの手入れをする。それは、本も同じことなんだよ。ここにある本は、もう一度人の手に渡るのを待っている。だから、手にとってもらえるようにきれいにしなきゃいけない。でも、本は自分で化粧ができないから、おじいちゃんがきれいにしているんだ」
 晴子ちゃんはこの話を聞いてから、「わたしも本を大事にしよう」と小さな決心をした。例えば、読んだ本をきちんと本棚に片付けるようになったし、お菓子を食べながら本を読むのもやめることにした。
 晴子ちゃんは床にあぐらをかいている秀太郎さんの隣に座って、いつものように聞いた。
「おじいちゃん。今日はおもしろい本、ある?」
 秀太郎さんは、晴子ちゃんのために、いろいろな本を見つけておいてくれる。晴子ちゃんにはまだ難しい本は読めないが、この間は宮沢賢治の童話を、大人向けの文庫本で読んだ。秀太郎さんは、
「昔の文庫本にはね、教養が積め込まれているんだよ」
 という話をして、文庫本を見せてくれた。晴子ちゃんには、「きょうよう」という言葉の意味がよく解らなかった。でも、古ぼけた宮沢賢治の文庫本を読んでいたら、少し大人になった気がした。晴子ちゃんは、
「これが『きょうよう』なのかな」
 と、思った。
 晴子ちゃんは、今日はどんな本が読めるのか、とても楽しみだった。しかし秀太郎さんは、
「残念だけど、今日は見つからなかったよ」
 と言った。晴子ちゃんは、本当に残念だと思った。しかし秀太郎さんは、
「そのかわり、今日はおじいちゃんがお話をしてあげよう」
 と言ったので、晴子ちゃんの残念な気持ちは吹き飛んで、途端にわくわくしてきた。秀太郎さんは、これまでも晴子ちゃんに色々な昔話をしてきた。その多くは、古本にまつわる話だった。年寄りの思い出話と言ってしまえばそれまでだが、晴子ちゃんはいつも興味津々で聞いていた。秀太郎さんはそんな晴子ちゃんを見る度に、「本好きが隔世遺伝したかな」と思う。とにもかくにも、秀太郎さんはなるべくいろいろな話をしてやるようにしていた。
「ねえおじいちゃん、今日はどんなお話?」
「そうだねえ。今日はむかしむかしのお話だよ。さあ、ここに座ってお聞き」
 そう言うと、秀太郎さんは部屋の隅の揺り椅子に座布団を置いた。秀太郎さんは、暇な時はこの椅子に座って本を読む。でも、最近は忙しいので、ゆっくり座る機会もなかなかない。しかし、忙しいということはそれだけ店が繁盛しているということ。「わがままを言ってはいけない」と秀太郎さんは自分に言い聞かせている。
 晴子ちゃんは揺り椅子にちょこんと座ると、ゆっくり揺らし始めた。それを見ながら、秀太郎さんは話し始めた。

 今から四十年以上前の話だ。あるところに、まだ若い男と娘さんがいた。男は大学生だった。そのころ大学に行く人は、まだ少なかった。
「ふうん。じゃあその人、頭がよかったんだね」
 そうかもしれない。そして娘さんは、お金持ちの家のお嬢様だった。娘さんも、大学に通っていた。女性で大学に行く人は、うんと少なかった。
「それじゃあ、その人もすごく頭がよかったんだね」
 そうだね。そんなふたりが、ある日ある場所で出会ったんだ。どこだと思う?
「私わかるよ。古本屋でしょう。おじいちゃんの話には、いつも古本屋が出てくるもん」
 その通りだ。二人は学校の帰りに立ち寄った古本屋で、偶然出会った。二人とも、外国語の本を探していた。娘さんは、英語を勉強していた。男は、ドイツ語の本を探していた。そしてふたりは、出会ったその時にお互いを好きになってしまった。
 それからふたりは、時々その古本屋で会うようになった。もちろん、声をかけることはしなかった。当時から自由な恋愛をする人もいた。だが、二人はその頃の多くの男女と同じく、いたって真面目だったんだ。だがある日、男の方が勇気を振り絞って娘さんを喫茶店に誘った。娘さんは承知した。ふたりは、それから何度か一緒にお茶を飲んで、いろいろなことを話すようになった。でも、それは長続きしなかった。
「えっ、どうして?」
 理由はいろいろあった。まず、その頃は男女が一緒にお茶を飲むことがあまりよく思われなかった。それに加えて、娘さんの家が厳しかった。嫁入り前の娘さんが若い男と一緒にお茶を飲んだことを知って、家の人は怒った。そして、娘さんと男は会うことはおろか、手紙のやり取りさえも禁止されてしまった。今だったらあまりないだろうが、その頃はそういうこともよくあったんだ。
「お父さんやお母さんがそうだったら、いやだなあ」
 それは心配ない。あの二人だって、お互い好き同士で結婚したんだ。晴子ちゃんに将来好きな人ができても文句は言わないだろう。
 ……どこまで話したかな。
「娘さんの家が厳しくて、二人が会えなかったところ」
 そうそう。そうだったね。娘さんには、学校の行き帰りにも見張りがつけられてしまった。女の友達と一緒に学校から帰ったり、寄り道することは許された。しかし、男の人には近づくことも許されなかった。もしも知らない男と話したら、外出禁止になってしまうし、学校へも家の車で通わされることになるだろう。
 娘さんも困ったが、もっと困ったのは大学生の男だ。彼は本当に悩んでしまった。その頃の大学生といっても、色々なのがいた。毎晩酒を飲んだり、まあ色々な遊びをしている奴もいた。しかし彼は、さっきも言ったように真面目だったんだな。始めて恋した女性が、娘さんだったんだ。その女性と会えなくなってしまった。それも、彼女に嫌われたわけじゃない。これはあきらめきれなかった。
「なんだか、かわいそう……。それから、どうなったの?」
 男はなんとか娘さんと連絡を取ろうとした。だが、会うこともできない。住所も、電話番号も知らない。そこで、どうしたと思う?
「ええと……。ヒントは?」
 ヒントかい。二人が最初に会った古本屋が大切なんだ。
「じゃあ、古本屋さんに手紙を渡してもらうように頼んだんだ」
 うん。まあ、当たらずとも遠からずだな。だが、いつ手紙を見られてしまうかわからない。娘さんは、手紙を部屋に隠しておいても見つかってしまうかもしれない。そうならないためにはどうしたらいいだろう。
「うーん。難しいよ」
 じゃあもうひとつヒントをあげよう。二人は、初めて会った古本屋で、店の主人に協力してもらい、本を使って連絡を取りあった。
「本を使ったの? 本の中に手紙を隠したのかなあ。それとも、本の開いているページに手紙を書いたのかもしれない」
 だいぶ近づいてきたね。本に手紙を書いたというのは、あっているんだ。しかし、すぐわかるような場所には、書かなかった。だから、開いているページではない。さあ、どこだろう?
「だめだ。わかんない、もう降参。答を教えて」

 じゃあ答を教えようか。二人は、本の「この部分」に手紙を書いてやり取りしたんだ。
「あっ。これ、本のカバーね」
 そう。日本の本には、結構古くからカバー付きのものがあった。中には岩波文庫のように、何年か前までカバーをつけなかった本もあるがね。そして、見ればわかると思うが、本のカバーの裏は、普通なにも書いていない。もっとも、最近の本では、カバーの裏にも絵が書いてある洒落た本も多い。しかし、ほとんどの本は真っ白だ。そこで、この部分に手紙を書いたんだ。例えば、男がまず手紙を書いて、それを古本屋に預ける。娘さんが来た時に、その本を受け取る。そして娘さんは、別の本のカバーの裏に手紙を書いて、また古本屋に預ける。それを男が受け取って……。というふうに、手紙を交換した。娘さんの家の人も、カバーの裏には気づかなかったようだね。
「へえ。なんだか、楽しそう。でも、それだと本が汚れちゃう気がする」
 たしかにそうだ。うちの売り物に、カバーの裏に落書きのある本があったら困る。ただ、当時の二人が一生懸命に考えたことなんだから、許してあげてもいいと思うね。
「それで、その二人はどうなったの? 結婚できたのかな?」
 さあ、そこまでは解らない。ただ、二人とも幸せに暮らしているんじゃないかな、今でも。

「これで、お話は終わりだ。面白かったかい」
「うん。面白かった。本のカバーの裏に手紙を書くなんて、全然気がつかなかったもん」
 でも……、と晴子ちゃんは心の中でつぶやいた。二つだけ、どうしても知りたいことがあった。ひとつは、男の人と娘さんがその後どうなったのか。もうひとつは、秀太郎さんがどうしてこの話を知っているのか。
 そして、晴子ちゃんは色々な「もしかしたら」を考えてみた。「もしかしたら、今のは全部おじいちゃんがつくった話かもしれない」。「もしかしたら、おじいちゃんは男の人の友達だったのかもしれない」。「もしかしたら、おじいちゃんはその古本屋で働いていたのかもしれない」。そして「もしかしたら話に出て来た男の人と娘さんは、おじいちゃんとおばあちゃんかもしれない」。
「どうしたい、晴子ちゃん。ぼんやりしちゃって」
 秀太郎さんが微笑みながら晴子ちゃんの顔をのぞき込む。
「ううん、なんでもない。本には、いろいろな話があるんだなあと思って」
「ほう。晴子ちゃんにもだんだん古本の魅力が解ってきたかな。さて、そろそろ夕御飯の準備の時間だ。わしが店番をしなきゃな。晴子ちゃんは台所に行っているかい?」
「私、台所でおばあちゃんのお手伝いするね」
「それは感心だ」
 秀太郎さんが店に出て行くと、入れ替わりに幸子さんが書庫に入って来た。書庫を通り抜けると、居間と台所がある。
「おばあちゃん、私もお手伝いするね。今日の夕御飯はなに?」
「今日はカレーライスにしましょ。晴子ちゃんも食べていくわよね」
「うん。私カレー大好き。お母さんに、夕御飯食べて行くって電話するね」
「そうね」
 こんなふうにして、一日は過ぎて行く。秀太郎さんと幸子さんが結婚するまでに、どんなことがあったのか。それはわからない。もしかしたら、晴子ちゃんが考えたように、秀太郎さんの話に出て来た男と娘さんが秀太郎さんと幸子さんなのかもしれない。しかし、それはどうでもいいことだ。色々なことがあったのかもしれないが、今では二人とも幸せで、晴子ちゃんというかわいい孫もいる。そして毎日が静かに過ぎて行く。これ以上望むことはない。
 これからどんなことが起こるか。それは誰にも解らない。しかしとりあえず、今回の話はここで終わりである。

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