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木の葉燃朗のばちあたり読書録

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■著者別や行

矢崎良一『元巨人 ジャイアンツを去るということ』 / 安田輝男『パロディ広告大全集』 / 柳家花緑『柳家花緑と落語へ行こう』 / 矢野徹:編『矢野徹の狂乱酒場1988』 / 山口瞳『月曜日の朝・金曜日の夜』 / 山口瞳『私流頑固主義』 / 山口瞳『男性自身 生き残り』 / 山崎浩一『なぜなにキーワード図鑑』 / 山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』 / 山田俊雄『ことばの履歴』 / 山田風太郎『風太郎の死ぬ話』 / 山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉』 / 山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計学』 /  山田 侑『会計士の父が娘に贈る32+1の手紙』 / やまと虹一・クラフト団『新プラモ狂四郎』 / 山中伊知郎『いくよ、二郎さんはいな、欽ちゃん 小説・コント55号』 / 山中伊知郎『オヒョイさんになりたい』 / 山中伊知郎『吉野家!』 / 山根一眞『賢者のデジタル』 / 山根 一眞『スーパー手帳の仕事術』 / 山根一眞『デジタル産業革命 「情品経済」の仕事力』 / 山根 一眞『モバイル書斎の遊戯術』 / 山本一力『あかね空』 / 山里亮太『天才になりたい』 / 山本浩『メキシコの青い空 実況席のサッカー20年』 / 夢路いとし・喜味こいし『浮世はいとし人情こいし』 / 横田順彌『火星人類の逆襲』 / 横田順彌『古書ワンダーランド@』 / 横田順彌『雑本展覧会〜古書の森を散歩する』 / 横田順彌『探書記』 / 横田順彌『ヨコジュンのわんだあブック』 / 横田順彌『人外魔境(ロストワールド)の秘密』 / 横山泰行『ドラえもん学』 / Yoshi『DeepLove【完全版】第一部アユの物語』 / 吉川潮『完本・突飛な芸人伝』 / 吉崎エイジーニョ『オレもサッカー「海外組」になるんだ!!!』 / 吉村智樹『吉村智樹の街がいさがし』 / 吉村智樹『まぬけもの中毒』 / 吉本敏洋『グーグル八分とは何か』  / 山田侑『会計士パパから娘への手紙〜わが子に残すお金より大切なこと〜』 / 吉崎 エイジーニョ『オトン、サッカー場へ行こう!』

2003年10月30日(木) 日本シリーズの余韻に浸りながらこの2冊(の1冊)
矢崎良一『元巨人 ジャイアンツを去るということ』(2003年,廣済堂ヒューマ ンセレクト文庫)
 読売ジャイアンツの生え抜きから、FA(フリーエージジェント)やトレードで他球団 へ移籍した選手・元選手へのインタビュー。登場するのは、小林繁・駒田徳広・香 田勲男・石毛博史・吉岡雄二・大森剛の6氏。それぞれの移籍に対する考え方、移 籍にあたっての思いが表れていて面白い。その精神的な面が、移籍先での成績に 表われていることも興味深い。
 しかし、読んでいて不思議だったのは、なぜみんなジャイアンツに憧れ、入団した がるのかということ。これは俺には理解できない。「プロで野球をやるならジャイア ンツ」という考え方は、野球をしている人間でないとわからないのか。あるいは、世 代の違いなのか。例えば、俺の生まれた1970年代後半は、ジャイアンツの9年連 続日本一(V9)も終わり、絶対的な強さのある球団というイメージはなくなっていた。 その前後で野球を見る者のジャイアンツに対する思い入れが変わるのだろうか。
 それに、選手を色々な球団から補強してきて、生え抜きが活躍する可能性が他 球団に比べて低い気がする。それでもジャイアンツと思うのはなぜなのか、そのあ たりをもう少し知りたかった。
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2003年3月7日(金) 広告を見聞きするのが楽しくなりそうな2冊(の1冊)
安田輝男『パロディ広告大全集』(1984年,誠文堂新光社) 古本
 ポスターやチラシなどの中で、なんらかのパロディになっているものを紹介した 本。こういう視点で広告を見ていくとまた違った面白さがある。そして、「パロディ広 告ってこんなにあるのか」と思った。中でも特に気に入ったのは、次の3つ。
 ・ しん也営業(深夜営業/団しん也ディナーショー)
 ・ 親瓶・小瓶(親分子分/サントリー オレンジジュース)
 ・ バッ禁ガム(バッキンガム宮殿/営団地下鉄 マナー広告)
 まあ、このようにくだらないものほど面白く、記憶に残ってしまう。語呂合わせの 暗記もそうなのだが、ダジャレには記憶に強い印象を残す効果があるのかもしれ ない。
 すべての広告の写真が掲載されているし、製作者などのデータも掲載されている (一部、年代不明のものがあるのは残念だが)。巻末には「パロディ&モジリキャッ チフレーズ集」もあって、資料的な価値もまずまずの本。

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2003年1月11日(土) 「粋」に思いをはせる2冊(の1冊)
柳家花緑『柳家花緑と落語へ行こう』(2002年,旬報社)
 落語について興味はあっても、詳しくはわからない人にはうってつけの本ではな かろうか。寄席について(内部の様子のイラストから、いくら払えばどれだけの時間 見られるのかまで)、落語の簡単な歴史、有名な演目の紹介、東京の著名落語家 の紹介など、落語のガイドブックとして便利そうだ。
 また、案内役である柳家花緑の半生や、花緑と東京落語家の四会派の中心人 物(立川談志・三遊亭小遊三・春風亭小朝・三遊亭円楽)との対談もあり、落語ファ ン・花緑ファンであればこうしたあたりが読みどころだろう。
 イラストや写真も多く、また若手真打ちの中でもスターになる可能性、落語界以 外でも人気者になる可能性を持っている花緑の本ということで、特に落語初心者に はおすすめできる。初心者である俺は、充分楽しめました。
 なお、柳家花緑について詳しく知りたい方は、柳家花緑・ 小林照幸『僕が、落語 を変える。』(2001年,新潮社)もどうぞ。
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2004年4月6日(火) インターネットの掲示板の原型がここにある
矢野徹:編『矢野徹の狂乱酒場1988』(1990年,角川文庫)古本
 パソコン通信での、会議室への書き込みから一部を抜粋した本。会議室というの は、掲示板のようなものだと思っていただければ、それほど的外れではないでしょ う。酒場をイメージして色々な人に書き込みをしてもらおうという会議室。1988年当 時の時事ネタも多く、雰囲気は伝わってくる。
 ただし、書き込んだ人は後々まで残すことを意識していなかったと思うし、どういう 人が書き込んでいるのかもよく解らないので、ちょっと読みにくい。本に収録されて いない書き込みがあったり、もとの書き込みから離れたところに返信があったり、 収録されていない書き込みへの返信は載っていたりと、本のつくりとして気になる 部分も多い。俺はそのあたりは読み飛ばしました。最初はページを戻して発言を読 み直したりしていたが、途中から無駄だと思ってやめた。誤字・脱字・事実誤認な ども見られる(誤字脱字は書き込み自体がそうなのか確認のしようがないが)。例 えば、会議室をBBSと表現する例が何度も出てきたあとで、「BBSというのはラジオ ですか?」(pp.296-297)などという記述が出てくる。
 あとは、当時のパソコンの専門用語やソフトなどの固有名詞も、当然のようにば んばん登場する。これは、解りにくいけれど面白い。当時はPC-9801やマッキントッ シュ、ワープロ専用機など、色々な機械でパソコン通信につないでいたわけで、こ れは結構貴重な情報かもしれない。俺はほとんどわからなかったですが。
 しかし、当時は限られた人だけが参加していたというイメージのある会議室 (BBS)だが、今と変わらないなあ。文章の拙さや話題のしょうもなさも。今となって はそうした部分も貴重だけれど。
 それから、この本を読んで俺は久々に酒が飲みたくなった。その意味では酒場ら しい雰囲気は出ているのだろう。

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2002年4月5日(金)3月に読んだ本(フリートークにて)
山口瞳『月曜日の朝・金曜日の夜』(新潮文庫)古本
 「月曜日の朝」は、国立から東京への通勤中の出来事をつづったエッセイ(風の 文章)。「金曜日の夜」は、国立の街を舞台にした小説(風の文章)。どちらもなんと もいえない味がある。「こういう大人に、私はなりたい」と思わされる。

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2003年1月11日(土) 「粋」に思いをはせる2冊(の1冊)
山口瞳『私流頑固主義』(1979年,集英社文庫) 古本
 まえがきにもあるのだが、「これは、以前に書いた『礼儀作法入門』(集英社文 庫)の続篇、もしくは姉妹篇にあたる」(p.7)本である。『礼儀作法入門』は、2000年 に新潮文庫で復刊されているので、手に入りやすいだろう。
 先に、ちょっと『礼儀作法入門』の話をしておこう。この本は、「まず健康であらね ばならぬ」からはじまり、冠婚葬祭での振舞い方や、入学式・卒業式のあり方のよ うな大きな行事から、酒・タバコとどう付き合うか、電話や通勤電車でのマナーなど の日常生活、更には背広・帽子・カバンに食器など、身のまわりの物のそろえ方ま でをユーモアを交えて語っている。決して堅苦しくはなく、それでいて読むと「なるほ ど」と思わされることが多かった。
 さて、そこでこの『私流頑固主義』だ。こちらは、もっと日常の色々な場面を取り上 げて、礼儀とはなにかをつづっている。例えば握手のしかただとか、子どもの名前 をどうつけるか、演劇や音楽界の観客はどうあるべきかなどなど。どちらかと言え ば、随筆のような趣がある。しかし、どの文章にも、氏の「粋であることを好み、野 暮が許せない」という思いが一貫している。
 人によっては、読んでいて「口うるさいなあ」と感じる点もあるかもしれないが、俺 は「大人の男とはこういうものだ」と思う。うまく表現できないが、もう少し年をとった らこんな風になりたいというのが、俺が氏の文章を読んでいつも感じることだ。
 俺が氏の本を読むようになったのは、大学生も半ばを過ぎた頃だったから、その 時には既に亡くなっていた。だから生前の氏の姿が記憶にほとんどないのが、残 念でならない。
 『私流頑固主義』は古本でしか手に入らないと思うが、『礼儀作法入門』他のエッ セイ、『江分利満氏の優雅な生活』(新潮文庫)などの小説は、今も新刊で手に入 ると思う。名前だけでも覚えておいて、本屋で見かけたら手にとって見てください。
※2004.4.10補足。現在『私流頑固主義』は『礼儀作法入門 続』として、新潮文庫に収録され ています。詳しくはこちら(オンライン書店bk1)。2003年からの山口瞳再評価でよかったことのひとつです、この復刊は。

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2002年5月6日(月)4月に読んだ本(フリートークにて)
山口瞳『男性自身 生き残り』(新潮文庫)古本
「最近はまってるよね、山口瞳には」
「うん。『こういう大人の男になりたい』って思う。生意気かもしれないけどね。これは エッセイ集なんだけど、まるで短編小説を読んでいるような気になるんだよ」
「必ずしも特別な出来事を書いているわけじゃないんだけど、引き込まれる文章だ よね」

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2004.12.18(土) 1980年代の日本は、つくづく不思議な時代だったと思う
・山崎浩一『なぜなにキーワード図鑑』(1987年,新潮文庫)
 1980年代中頃のキーワードを紹介するコラム集。登場するキーワードを、いくつ か紹介しましょう。
 「アイドル」、「東京」、「MTV」、「グルメ」、「浅田彰」、「世紀末」、「パフォーマン ス」、「偏差値」、「リクルート」、「カルトムービー」、「新人類」、などなど。
 自分が知りたい時代について詳しく書かれているので、興味深い。しかし、注や 図や写真が詰め込まれていて、山崎氏自身がまえがきで書いているように「まるで 受験参考書のごとくシチ面倒臭そうな文字や図版が超過密に押し込められてい る」(p.3)のである。
 しかし、あまり気合を入れすぎずにとにかく読んでしまった。
 読んでいると、1980年代が空疎だったように感じてしまう。これは書かれている内 容自体の問題もあるし、山崎氏の書き方もあるのだろう。
 取り上げる物事も取り上げ方も、つくり話(といって差しさわりがあれば「物語」)と しての面白さはある。でも、なんとなく嘘っぽい。パロディみたい。
 だから、当時の物事を経験していないと、どこまでが本当でどこまでがパロディか わからない。それが原因なのか、俺は読んでいて居心地の悪さを感じたな。
 むしろ注やデータから読み取れる、とりあえずの事実らしい部分や、取り上げら れている固有名詞そのものの方が、むしろ今と比較できて面白かったりする。国生 さゆりの「バレンタイン・キッス」は、1986年に出たおニャン子クラブ関連のシングル 43曲のうち、1位になれなかった5曲の方に入っているとか、リクルートの母体は東 大生の創業した「大学新聞広告社」だったとか。
 まあ、俺がなぜそれらを面白がるのか聞かれても、困ってしまうのだが。

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2002年12月1日(日) 「笑い」にまつわる3冊(の1冊)
山下武『大正テレビ寄席の芸人たち』(2001年,東京堂出版)
 著者は「大正テレビ寄席」のディレクター兼プロデューサー。さらに、落語家柳家 金語楼の息子でもある。なお、「大正テレビ寄席」は1963年から1978年までNETテ レビ(現・テレビ朝日)で放送された演芸番組。
 この番組をリアルタイムで見ることができなかった俺にとっては、当時その番組を つくっていた側の人の証言というのは重みがあり、興味深い。内容は、かの番組に 出演していた人々を回顧するもの。人名索引もついており、資料的価値も高い。
 登場するのは、この番組の司会で一躍有名になった牧伸二をはじめ、漫才・落 語・漫談・物真似、ボーイズ物にコミック・バンド、コントグループなどなど。ここで紹 介される人々は、そのまま戦後日本演芸史のある一面に登場する人々でもある。
 「5秒に1回の笑いを」というテーマのもとに、いかなる試行錯誤が行われたか、そ していかにそれが成功したかがひしひしと感じられる。見る側でなく、つくる側の人 間だからこそ知っている話もあり、興味深かった。
 今のお笑い・バラエティ番組に対して、少々説教臭い話もあるが、それを差し引 いても面白い本。
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2002.12/14(土) 言葉をめぐる2冊(の1冊)
山田俊雄『ことばの履歴』(1991,岩波新書) 古本
 言葉に関する短いコラムを集めたもの。といっても、内容は硬めで、氏の研究者 らしさを感じさせる。ちなみに氏は、日本語史の研究者であり、『新潮現代国語辞 典』の編纂なども行っている。
 現在の流行語というよりも、その時々に気になった言葉について、江戸時代・明 治時代の用例をもとにして考察していく。
 新書なのでそれほど大きな本ではないが、内容は濃い。

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2003年7月20日(日) 山田風太郎を味わう2冊(の1冊)
山田風太郎『風太郎の死ぬ話』(1998年,角川春樹事務所・ランティエ叢書)
 作家山田風太郎氏のエッセイを集めた本。おおよそのテーマに沿って5章にまと められていて、身辺の出来事や思い出話の「T快適なる孤独について」、食事に 関する話の「U食い意地について」、死にまつわる話を集めた「V死に方につい て」「W死に支度について」、インタビューの抄録「X人生について」とタイトルがつ けられている。
 関川夏央『戦中派天才老人 山田風太郎』(1998年,ちくま文庫)とあわせて読ん だので、晩年の氏の考え方がなんとなくわかった気がする。日常のなんでもないよ うな話にも、なんともいえない味わいがある。例えば食に関する話の中で、正岡子 規・古川ロッパや風太郎氏自身の食べた献立の記録が出てくる。こういう身近なこ とは、その当時の人にとってはわざわざ記録しておくことではない。しかし、実はそ の人たちの生きた時代を知るための大切な記録なんだよなあ。そんなことを強く感 じた。
 それから、この本で初めて知って驚いたことをひとつ紹介しよう。それは、昭和初 期の探偵作家浜尾四郎と、喜劇役者古川ロッパが兄弟であるということ。さらに浜 尾四郎と風太郎氏は遠縁にあたるらしい。山田風太郎−浜尾四郎−古川ロッパと いうつながりは、意外な縁だ。
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2007-06-06(水) 数字を見て現実を見ていないという過ち

食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉 山田真哉『食い逃げされてもバイトは雇うな 禁じられた数字 〈上〉』(2007年4月,光文社新書)Amazon.co.jpbk1

 著者自身の「『あとがき』というか『なかがき』というか解説」によると、この本は「1時間で読めて効果も高い本」(p.201)にするつもりで書いたとのこと。1時間で読めるというのは正しい。私も、出勤時・退勤時の通勤時間20分×2と、昼休みのうち30分、合計70分で読めました。
 しかし、効果がある本、役に立つ本かどうかは、人により異なります。例えば同じ著者の『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』を読んだ人には、この本の効果はせいぜい50%でしょう。
 なぜなら、『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』に登場した話が再び登場しているから。
 例えば、「A.1000のものを500円で買う。/B.101万円のものを100万円で買う。」(p.115)のどちらがコスト削減になるか、という話。あるいは、「ライバル会社が、買い物時に代金の5%を還元するというキャンペーンをはじめ」(p.96)たので、これに対抗したいが、「悲しいことにお金がない。せいぜい2%還元分の予算しかありません」(p.97)。さあどうしましょう、というクイズ。
 したがって、知らない人は「目からウロコ!」と絶賛し、知っている人は「なにをいまさら!」と憤慨する、そんな本です。

 そして、この本のタイトルになっている「食い逃げされてもバイトは雇うな」という結論は、実は間違いです。正確には、「食い逃げされてもバイトは雇うな」という結論だけを見れば正しいが、この問題設定自体に意味がない。
 これについて、以下で説明します。
 設問の舞台となるのは、次のようなラーメン屋。「1時間に2人はお客さんが来る」(p.125)、「お客さん1人あたりの売上高は、ビール代なども含めて平均1000円。開店時間は1日10時間」(p.125)。
 そして、「食い逃げされてもバイトは雇うな」の根拠になるのは、下記の計算。
 このラーメン屋は「お客さんがいるのに、店主が出前に出てしまうことがあります。その間、お店がカラになるので、食い逃げをする人がたびたび出てしまいます」(p.128)。しかし、「店主は見張りのためのバイトを雇おうとはしません」(p.128)。この時、「食い逃げする確率を20%(5人に1人)、バイト代を時給800円とする」(pp.128-129)と、次のような計算ができる。
「お客さんの数 2人×10時間=20人/食い逃げの被害額 20人×20%×1000円=4000円/バイト代 800円×10時間=8000円」(p.129)。
 つまり、食い逃げの被害額4000円よりも、バイト代8000円の方が高い。したがって、「食い逃げされてもバイトは雇うな」。

 でも、なんだか変だと思いませんか。たしかに具体的な数字を上げて言い切られると反論しにくいが、「なるほど! たしかに『食い逃げされてもバイトは雇うな』だ!」と思う人はどれだけいるだろうか。どこかひっかかるのではないだろうか。
 私がこの部分を読んでまっさきに思ったのは、次のことだった。

「店をカラにしたときのリスクって、食い逃げだけなの?」

 前提条件として、「店主が出前に出てしまう」と「お店がカラになる」とある。しかもお客は1時間に2人。ということは、店にいるのがお客1人という可能性がある。
 そこで食い逃げをするような人間は、果たして食い逃げだけで帰るだろうか。私はレジの金を盗んでいく可能性を考えます。あるいは店に火をつける人間だっているかもしれない。
 もちろん、ここで盗難や放火も(食い逃げも)含めたリスクと、店をカラにしない(リスクを減らす)コストを考える時は、様々な可能性を検討しなければいけない。例えば、

 などなど。
 こうした可能性をすべて検討した上で、たとえ店がカラになる時間帯があっても、バイトは雇わない方がいい、と結論付けているのであれば納得できる。しかし、「食い逃げの被害額」と「バイトの給与」というたった二つの数字だけで結論を導き出しているのは、「数字を見て現実を見ていない」という過ちを犯しています。1時間で読める本にするために単純化したことが悪い面で出たと考えます。
 このような、極端な単純化をしている本だということを念頭に置いて読む必要があります。

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2005.3.7(月) 数学も経済学も経営学もとんと分からない、そんな俺でも面白 く読めた。
山田真哉『さおだけ屋はなぜ潰れないのか? 身近な疑問からはじめる会計 学』(2005年,光文社新書)
 次のような、身近なエピソードをもとに書かれた会計学の本。

エピソード1 さおだけ屋はなぜ潰れないのか?−利益の出し方−
エピソード2 ベッドタウンに高級フランス料理店の謎−連結経営−
エピソード3 在庫だらけの自然食品店−在庫と資金繰り−
エピソード4 完売したのに怒られた!−機械損失と決算書−
エピソード5 トップを逃して満足するギャンブラー−回転率−
エピソード6 あのひとはなぜいつもワリカンの支払い役になるのか?−キャッシ ュ・フロー−
エピソード7 数字に弱くても「数字のセンス」があればいい−数字のセンス−

 紹介したい部分は色々あるのだが、まずはタイトルにもなっているエピソード1の 疑問の答えを紹介しましょう。「さおだけ屋は、仕入れ費用がほとんどゼロの副業 だった!」(p.35)という、なんだか推理小説の謎解きのような結論なのであった。し かし、ここに説得力のある説明がある。もう少し詳しく紹介しましょう。
「なんと、『さおだけ屋』なる商売はそもそも存在しなかったというわけだ。/お得意 様に他の商品を配達するついでに『さおだけ屋』を営業している金物屋もあるらし い」(p.33)
 この答えだけ聞くと「なあんだ」と思う人もいるかもしれない。しかしよく読むと、こ れは利益を出す方法をうまく考えた商売であることがわかる。つまり、
「利益を出すためには、/・売り上げを増やす/・費用を減らす/のふたつの方法 しかない」(p.36)
 のであり、特に「てっとり早く利益を出すためには、『費用を減らす』ことを考える ほうが賢明だろう」(p.38)となる。
 金物屋が商品を配達するついでに営業するさおだけ屋は、費用を減らした商売 として、非常によく出来ている。さおだけ屋のためにわざわざ準備するものはなに もない。かつ、金物屋の配達にかかる時間や費用が回収できる可能性もある。

 他にも色々と面白い話がある。いくつか紹介します。
・節約は絶対額で考える(1000円のものを50%引きで買って500円得するより、101 万円のものを1%弱引きで買って1万円得する方が得である。pp.39-40)
・家賃はまとめて数か月分払うと、大家さんに非常に喜ばれる(経営者が資金のシ ョートを非常に心配していることを示す例。pp.83-84)
・目標は、「自分が実現できそうだと思っているラインよりも、少し高めに設定する のがコツ」(p.104。チャンスロスを防ぎ、かつ自分のやる気を高める方法)
・「根拠がたいしてなくても、とにかく数字を使って話をすれば主張を受け入れても らいやすくなる」(p.123)
・「50人にひとり無料」とは、「全員に2%割引」とほとんど同じ意味であるが、捉え方 は全く変わってくる(pp.185-188)。
 一番最後の話は、「50人にひとり無料」とは「100人にふたり無料」ということで、こ れは100分の2、つまり2%の割引をしているのと同じ意味であるということ。「2%割 引」といわれても大したことがないようだけれど、「50人にひとり無料」と言われると 注目を集まるよなあ。

  なお、本の目的が「@会計の本質を大まかにつかんでもらう/A苦手意識をなく して、身近なものとして会計を使ってもらう」(p.6)となっているので、多分厳密に言 うともう少し説明が必要な部分もあると思う。しかし、数学も経済学も経営学もとん と分からない、俺でも面白く読めて、会計の基礎はなんとなくつかめた。
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2006.01.27(土)「金を儲けてなにが悪い」という言葉に、うまく反論できず悔しく思っている人に

オンライン書店ビーケーワン:会計士の父が娘に贈る32+1の手紙・山田 侑『会計士の父が娘に贈る32+1の手紙』(2006.9,新風舎)
 タイトルどおり、会計士である父親が、高校生の自分の子どもに対し、お金についての様々な話を書いた手紙をまとめた、という形式の本。
 読みやすいので、3時間くらいで一気に読めてしまった。高校生、あるいは中学生くらいから、読める内容だと思う。
 ただし、決して内容が薄いわけではない。「『人生で一番大切なのはお金である』と堂々と言う若者が増えていますし、そう言う若者を怒る大人もいなくなって」(p.5)いて、「お金という生き物が間違った方向で暗躍し、世の中はますます危険な方向に進んでいる」(pp.5-6)今の日本への危機感が、著者がこの本を書いた理由とのこと。そして、「昔の日本人が必ず聞いたことがあることばかり」(p.6)ではあるが、それゆえ今の日本ではないがしろにされている点を、ひとつずつ紹介していく。

 印象に残った部分を紹介します。

・「モノやサービスを購入するという道具としてのお金は怖くはない。ものさしとしてのお金が顔を出してくると、今度は君がそのお金という生き物に支配されることになるのです」(p.36)
 これは言い方を変えると、お金を手段と考えるうちは問題がないが、お金を目的とすると、人間はおかしくなってしまう、ということ。なぜなら、目的としてのお金は、いくら手に入れても際限がなくなってしまうから。

・「お金は友人に貸してはいけない。もしどうしても貸さなければいけない場合には、返ってこないものと思いなさい」(p.43)。さらに、お金が返ってこないだけでなく、感謝の気持ちのようなあらゆる見返りを期待してはいけない、とも書かれている。
 これに関連してもうひとつ。
・「どんなに親しい人から頼まれても絶対に保証人になってはいけない。たとえ何らかの理由でどうしても保証人にならなければならない事情が生じた場合でも、保証人になってはいけない。その場合には、返ってこないつもりで自分の持っているお金を貸しなさい」(p.55)。
 なぜならば、「保証人になるということほど、わりに合わないものはない」(p.54)から。ある人の事業が成功した場合、その人は多額のお金を手に入れるが、保証人には一円も入らない。にもかかわらず、もしもその人が借金を返済できなければ、保証人が返済しなければならない。
 借金の保証人にはなりたくないし、親しい人とお金の貸し借りもしたくないが、もしもそうせざるを得なくなった時、自分はどうすればいいか。この部分を読んで、取るべき方法が分かり、少し気分が楽になった。

・「もし君がお金に困るような状況になったら、まずやるべきことは、生活のレベルを下げることです」(pp.68-69)。その具体的な例として、消費者金融からお金を借りる前に、質屋へ商品を預けて金を借りる、という話がある。
 なぜなら、年率29%で100万円を借りた場合、一日あたりの利息は795円(100万×29%÷365)だが、一ヶ月で23,836円。もしも一年間まったく返済をしないと、返済すべき金額は利息にも利息がついて1,326,670円になる。(以上、pp.65-66より)。金が返せない期間が長くなればなるほど、自分が払うべき金額が(借りた金額以上に)増えていくのである。
 これに対して、質屋では、借りた金が返せなければ、預けた質草が流れてしまう(自分の手元に帰ってこない)。しかし、逆に言えばそれで済む。自分が借りた金以上の金額を返済することには、ならない。また質屋では、質草で借りられる金を、顔をあわせて話あわなければならない。それが、自分の状況を反省することになる、と著者は言う。

 倹約とケチの違い。
・「倹約とは、不必要な出費をしないことであり、言い方を変えれば、必要なものにはお金を使うのです。反対にケチとは必要なものであれ不必要なものであれ。とにかくお金を使わないことを言います」(pp.88-89)。「倹約は、自分だけでなくまわりの人まで心を豊かにしますが、ケチはまわりの人まで不愉快にします」(p.89)。
 ここで大事なのが、最初に紹介した、道具としてお金を捉える考え方なのだろう。なんのためにお金を稼ぐのかを、忘れないようにしたい。

 リスクとリターンについて。まず、「『ローリスク・ハイリターン』はありえない」(p.128)。唯一考えられる例外は、特許権や著作権のような法律に基づく権利。その上で、ハイリスク・ハイリターン、またはローリスク・ローリターンの投資を考える時、重要なのはリスクが計算できるかどうか。例えば、「株式投資はハイリスク・ハイリターン」(p.130)の投資だが、「最悪のリスクが計算できる」(p.130)ので、投資としては有効であると、著者は考える。株式投資における最悪のリスクは、投資した金が全額回収できないこと。しかし逆に言えば、そこまでということが分かっている。それ以上自分が金を払うことはない。
 逆に言えば、「投資した金額が戻ってこないばかりでなく、無制限に追加の投資やその他の責務が君に振りかかってくる」(p.131)ような投資は、リスクが計算できないため、避けるべきである、という。

 他にも、税金の話や、年金の話、ビジネスにおける会計や契約の話などもあり、お金について全般的に知ることができる。

 「金を儲けてなにが悪い」という拝金主義に、納得のいかない思いを持っていても、それに対する反論の言葉がうまくでてこない人は、この本が自分の考えをはっきりさせるヒントになるのではないかと思う。

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2006.05.31(水) なつかしのマンガを再読する

新プラモ狂四郎・やまと虹一・クラフト団『新プラモ狂四郎』 (Amazon.co.jpの紹介ページ)
 小学生の頃、リアルタイムで途中まで読んでいたマンガを再読。いやあ、懐かしかったなあ。
 講談社の雑誌『コミックボンボン』に連載された、プラモデルマンガ。この単行本には連載年月日が掲載されていないのだが、おそらく1987年の連載だったと思う。
 前作『プラモ狂四郎』(1982年〜1986年『コミックボンボン』連載)では、プラモデルのデータをコンピュータに入力し、実際にプラモデルを操縦しているかのように戦う「プラモシミュレーション」というシステムが秀逸だったが、本作でも、「アーマード=バトル」というバトルのシステムが登場する。これって、今で言う「バーチャル・リアリティ」に近いアイデアですね。
 『新プラモ狂四郎』では、主人公新京四郎が「造型教育に重点をおく日本でもただひとつの学園」(p.11)大日本造型学園に転校してくるところから話が始まる。プラモ部をつぶそうとする生徒会に対し、部の仲間たちと立ち向かい、その中でアーマード=バトルというゲームの存在を知り、その秘密を突き止めていく。
 前作『プラモ狂四郎』に比べ、話としては短い。また展開も急に感じる部分もある。しかし、十分面白かった。特に後半のどんでん返しはなかなか。また、前作の登場人物も一部出てきたりして、懐かしかったなあ。プラモ部の江原飛人は前作に初代プラモ狂四郎こと京田四郎のいとことして登場しているし、プラモ部部長の富田先生は、前作で四郎のモデラー(プラモデルの製作者)の先輩として登場している。
 『プラモ狂四郎』も買ってあるので、時間を見つけて読もうと思います。

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2002年9月6日(金)
山中伊知郎『いくよ、二郎さん はいな、欽ちゃん 小説・コント55号』(2002
年,竹書房)
 小説とは書かれているが、「実録小説」、つまりノンフィクションに限りなく近いフィ クションである。萩本欽一・坂上二郎という2人の芸人が、コント55号を結成し、日 本一に登りつめるまでを描いている。
 コント55号や、1960年代の日本の芸人・演芸の状況に興味がある人なら、面白 いことは間違いない。コント55号が結成されるまでの経緯が、当時のお笑い界の 状況とあわせて丁寧に語られている。俺なんかは、コント55号についての本という だけで多少ひいき目に見てしまうが、それを差し引いても面白いと思う。
 ちなみに、1993年8月に日本テレビ系列で放送された『ゴールデンボーイズ 1960 笑売人ブルース』(演出:田中知己/脚本:市川森一)というドラマは、この小説と 同じ時代を描いており、当然萩本・坂上の両名も登場する「実録ドラマ」である。ビ デオ化などはされていないようなので、今見ることは難しいと思うが、この本を面白 いと思った人は、同じくらい楽しめることでしょう。
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2003年4月6日(日) 才能と味のある芸人さんを知りたければこの2冊
山中伊知郎『オヒョイさんになりたい』(1998年,風塵社) 古本
 「オヒョイさん」こと藤村俊二は、不思議な人だ。俺にとっては、子どもの頃から 「そういえばずっとテレビで見かける人」だった。特に、「ぴったしカン・カン」(TBS 系,1975年〜1985年)や「クイズ! 年の差なんて」(フジテレビ系)などのクイズ番 組での回答者としての面白さは印象に残っている。クイズの回答者に面白さもなに もないと思うだろう。しかしオヒョイさんは、単に回答率が高いだけでも、ぼけの回 答で笑いを得るだけでもなく、とにかくいるだけで意味のある回答者だった、と思 う。
 それから印象的だったのは、しばらくテレビで見ないと思ったらいきなり白髪で髭 のおじいさんになってしまったこと。あれはびっくりしたねえ。浦島太郎みたいだっ たよ。
 しかし、そうした一面はあくまで一面でしかない。この本を読むと、それがよく解 る。オヒョイさんは、子どもの頃から相当な変わり者だった。金持ちのボンボンで、 女性にも若い頃からモテた。そして20歳の時に「東宝芸能学校」に入学し、その後 日劇ダンシングチームに入団。その公演で訪れたフランスに残り、ダンス・パントマ イムを学ぶ。帰国後は振付師として活躍。そして『巨泉・前武ゲバゲバ90分』(日本 テレビ系)で一躍名前を知られ、その後はタレントとして活躍して行く。
 最近は俳優としても味のある演技を見せ、更には長年の夢であったワインバー をオープンさせる。ううむ、好き勝手やっているようで、しっかり生きているのは、ひ とつの才能だろうねえ。
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2002年9月29日(日)
山中伊知郎『吉野家!』(2002年,廣済堂文庫) 古本
 吉野家に関する様々なウンチクや、吉野家の歴史についての本。ビジネス面だ けを取り上げたわけでもないし、たんに興味本位なだけでもない。バランスが取れ ていて、なおかつまとまったいい本だと思う。
 吉野家の創業から、倒産、そして再起と現在の隆盛までを書いた部分。それか ら、吉野家の店舗スタッフがどんな仕事をしているのか。そして吉野家に関する雑 学あれこれ。大きく分けてこのみっつに分かれる。特に三つ目は面白いです。「食 べ方からわかる性格診断(吉野家の牛丼の食べ方の紹介」、「都内名店10カ所巡 り」、「吉野家ポケット用語事典」など、タイトルだけで興味をそそられる人もいるの では。
 「吉野家なんか大嫌い!」という人でもない限り、読めばなにかしら面白い部分が 見つかり、吉野家の牛丼が食べたくなるであろう。俺も久々に食べに行ってしまい ました。
※2004.4.10追記:まさか吉野家で牛丼が食べられなくなる日が来るなんて、この頃は想像もしなかったよ。いまこそ読まれるべき本だと思う。
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2007.10.07(日)デジタルの楽しみと切なさと

賢者のデジタル 山根一眞『賢者のデジタル』(2007/08、マガジンハウス)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 1997年から日本経済新聞で続く連載「デジタルスパイス」から抜粋し、テーマごとにまとめられた本。
 まえがきに、下記の通りある。
 「続々と登場するデジタル機器にいち早く飛びつき、なんとか仕事や生活に役立たせたい」(p.4)、「『オタク』や『趣味』だけのデジタルではいけない……」(p.4)、「デジタル人生が楽しくなり、また危険防止に役立てば幸いです。これは、読者の皆さんが『賢者』になるためのデジタル本なのであります」(p.5)。
 これが、この本の大きなテーマです。そして、個々の商品やサービスごとに、下記の14章に分けてデジタル機器、サービス、webサイトが紹介されている。

第1章 デジカメなしの人生なんて
第2章 ネット検索は山根式「とは法」で
第3章 右脳、左脳、パソコン脳が全開
第4章 うちのクルマが宇宙から見えた
第5章 そろそろ「デジタル経団連」の予感
第6章 今日もまたメディア狂想曲
第7章 デジタル暗黒街に気をつけて
第8章 「モバイル」苦心惨憺の十年史
第9章 私のハードディスクは20億円
第10章 大震災でのデジタル○と×
第11章 「ユニバーサルデザイン」って何?
第12章 やっぱりマックが大好き
第13章 今は昔、私はデジタル人身御供
第14章 あの小さな「願い」は実現した?

 以前からデジタル機器を紹介している山根氏だけあって、この本に登場するのも、実際に役に立ちそうなソフトや道具、webサイトが多い。せっかくなので、個人的に気になったサイトやサービス、商品情報へリンクを張っておきます。

 また、デジタルの利便性を表す名言といえるのが、「なぜアマゾンまで行ってメールする必要があるのか?」(p.196)という問いに対する「メールができるからアマゾンに行くことができる」(p.196)という答え。そして、これはデジタルがあくまで手段であることを忘れないための名言でもある。

 そんな便利なデジタルだが、一方でデジタルの持つ切なさも、この本の事例から感じさせる。例えば、著者が『和漢三才圖會』の原書をめくりながら、1712年に発行されたこの百科事典が300年経っても当時のままで読めること、一方著者が使い始めて25年程度のフロッピーディスクが既に読めなくなっていることに思いを馳せる話(p.226)。
 こうした部分を読むと、インターネット上やデジタルなメディアに記録された情報は、その時その時を流れ行くもので、100年・200年先を考えたものではないのだろうと思う。ハードディスクは10年も経てば物理的に故障する可能性が高まり、CD-RやDVD-Rは100年以上はデータを保存できるというが、それも保存状態によるし、ディスクは無事でも読み込むためのドライブが100年後に残っているかどうかも怪しい。
 そう考えると、特にインターネット上で書かれる文章や、そうした文章を書く時の人の考え方というのも、スピードとその場で注目を集めることが重要視される、刹那的なものなのかもしれないと思う。

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2008.11.13(木)「システム手帳本」の元祖

山根 一眞『スーパー手帳の仕事術』山根 一眞『スーパー手帳の仕事術』(1986年、ダイヤモンド社)  Amazon.co.jpオンライン書店bk1

 イギリスのシステム手帳「ファイロファックス」を紹介する本。イギリスでのショップ・ユーザーのレポート、山根氏自身の使い方のレポート、日本のユーザーのレポートが掲載されている。これが「システム手帳本」の元祖。

 もう20年以上前の本だし、今の山根氏の考え方とは違うところもあるかもしれない。少なくとも、なんでもシステム手帳に詰め込む必要はなくなっている。ノートパソコンや携帯電話で代替できる部分もあるだろう。しかし、システム手帳のなにが便利で、どう使うのがいいのかは今読んでも参考になる。
 一番ポイントになるのは、「理想の手帳とは、使う人間が自分にあった様式に自由に作り変えることができる手帳」(p.71)ということ。例えば、アドレス帳がすべて同じページ数の手帳は実はバランスが悪い。東京23区の電話帳から調査した、各文字から始まる個人名・企業名の分布表が掲載されているのだが(PP.102-103)、その数はまったく違う。「い」や「た」から始まる名字と「ぬ」や「る」から始まる名字の数は違うのに、アドレス帳に同じページ数を取るのは無駄である。しかし、システム手帳ならページ数を変えることが出来る。
 「課題→計画/企画→実行→記録」という仕事の流れと、それぞれにどのようなリフィルを使うべきかという図(pp.66-67)も、システム手帳を使うかどうかとは別としても参考になる。

 文庫化されていないし、難しいと思うが(版元がダイヤモンド社ということと、内容の大幅なアップデートが必要なことから)、古本屋では比較的見かける本なので、興味がある人は探してみてもいいと思う。

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2007年11月19日(月) 現実社会に飲み込まれてしまったデジタルで、なにができるのか

デジタル産業革命―「情品経済」の仕事力 山根一眞『デジタル産業革命 「情品経済」の仕事力』(1998年、講談社現代新書)オンライン書店bk1楽天ブックスAmazon.co.jp

 1998年、雑誌『現代』に連載されたもの。デジタル、具体的にはパソコンとインターネットが、日本の社会にどのような変化をもたらすかを考察した内容。

 キーワードになるのは、「情品」という山根氏の造語。これは次のように定義されている。

「モノや情報がこれまでと何ら変わることなく生産され消費されているにもかかわらず、金銭が介在しない経済が広がっている。(中略)人々がモノや情報の対価として『心の充足感』のようなものを得ているということだ。(中略)人の『情』けと『情』報によって交換される『品』。情品は『情品市場』を作り、『情品経済』を形づくっていく」(p.52)

 個々の事例については、さすが山根氏という感じで、鋭い指摘がされている。現在実現されている物事も多数ある。
 それは例えば次のような部分。

・インターネットにより、「約六十億人に達する世界の人口のたった一人が、六十億分のもう一人と簡単に、瞬時に、出会える手段を『個人』が手にしてしまった」(p.41)
・インターネット上では「本来であれば金銭というメディアを使ったモノの交換が、情報や心で行なわれるのである。古代人の物々交換経済にも似た世界が、よりにもよって二十世紀末に世界的に広まったのである」(p.43)
・「インターネットは、そのマスメディアしかできなかった情報流通をいとも簡単に個人でもできるようにした」(p.50)。かつてならば文章であれ音声であれ画像であれ、個人が発信することが難しかった情報の公開も、今ではやろうと思えばローコストで実現できる。
・「第三次産業の次、これからの十数年を確実に担うのが、デジタル情報を基盤とする新産業、『第四次産業』である。『第四次産業』がこれまでの産業構造の推移変転と異なる点は、それが独立した新しい産業をつくるのではなく、既存の産業を串刺しにする形で既存の産業に新しい道を開く点にある」(p.113)。例えば、webサイトとメールを使って、農家や職人さんなどが直接自分の作ったものを全世界の人に販売できるようになった。また小売業やサービス業の中にも、これまでの商圏にいなかったお客さんへ商品やサービスを提供できるようになった。
・「デジタル回線を『道路』に使い配送できるモノであれば、さらに予想もつかなかったビジネスが生まれるだろう」(p.120)。音楽や動画の配信などは、まさに商品(情報)をデジタル回線に乗せて配送しているわけです。

 このように、個々の事例ではデジタルへの期待が書かれ、それは一部実現している。
 それでは果たして、日本の社会全体は良くなったのか。そして我々の生活は良くなったのか。

 答えは残念ながら「ノー」だろう。そして、それがなぜなのかを考えなければ、社会は(というのが大げさなら、多くの人の生活は)いつまでたっても良くならない。

 ポイントになるのは、1998年当時、パソコンやインターネットに触れていたのは、関心があり、ある程度の知識もある人たちだったということ。この本の中に登場するのも、そうした人々である。そしてそうした人々には、モラルもあった。
 例えば、当時はアメリカの掲示板に、80歳になるおばあちゃんに誕生日カードを送って欲しいと、住所も含めて書き込みがあったというし(pp.40-41)、1995年のフランスの核兵器に反対するチェーンメールが送られ、しかもそれは好意的に受け入れられた。なにしろ、その活動を停止した理由は、非難があったからではなく、ネット回線がパンクしそうになったので自粛したということだったらしい(pp.72-77)。

 そのまま利用する人たちのモラルがある一定以上に保たれれば、10年前に山根氏が予想した社会状況もありえただろう。しかし、急速にパソコン・インターネットが普及したことで、従来の経済システムや人間関係がそのままデジタルに移行してしまった。
 中には、たしかに従来とは違い、モノや情報の対価に、金銭ではなく情(心の充足)を求める人もいるだろう。しかし、関心・知識とモラルのバランスが崩れたために、ひたすら金銭を求める者もいる。象徴的なのは、自らが起業した企業の株価を高めるために不正行為を行なったとして逮捕された(地裁で実刑判決が出ているが、2007年10月現在裁判は継続中)堀江貴文被告だろう。
 それ以外にも、宣伝目的のスパムメール、金銭や個人情報を詐取しようとするwebサイト(フィッシングサイト)、インターネット上での誹謗中傷など、いい面だけでなく、悪い面・問題点も出てきている。デジタルが、現実社会に飲み込まれてしまったような感じがする。

 この状況を変えるのは、簡単なことではないだろう。しかし、デジタルによって、良くも悪くも、これまでにできなかったことが実現できるようになったのは事実だし、かつてインターネットやデジタルに希望・期待を抱く人が多かったことも事実。そのことは常に意識していきたいと思う。

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2007-06-22(金) 単なる懐かしさだけでなく、今につながるアイデアも
モバイル書斎の遊戯術 山根 一眞『モバイル書斎の遊戯術』(1999年,小学館)Amazon.co.jpオンライン書店bk1
 雑誌『DIME』に1996年〜1999年に連載されたもの。タイトルのとおり、デジタルカメラ、ビデオカメラ、携帯電話などのモバイル機器を中心に、様々なデジタル機器を実際に購入し、使用している。その中で様々な提言がされている。
 1996年というと、まだ10年前の話だが、「もう10年前」という感じがする。それくらい、様々な部分が変化している。

 例えば商品の価格。以下は1996年8月の記述。
「メモリー不足も心配なし。16メガバイトを増設すればいい。この16メガバイト、数年前は14万5000円もしたが、今や消費税込みで1万3184円だ。(中略)
 キーボードとマウスは余っていたのを使ったが、安く買うなら2点で1万200円でOKだし。インターネットにはモデムが必須だが2万8000bpsのモデムを9800円で買ったばかり」(p.40)
 ちょっとパソコンをご存知の方なら、色々懐かしく、また驚きでしょう。そうか、10年前はキーボードとマウスのセットが1万円で安かったんだ、とか、今やメモリは512メガバイトから1ギガバイトの時代だけれど、当時は16メガバイトだったんだ、とか。
 他には、「パソコンは仕事に使う、使えるものなのに、たとえば『パソコンによるプレゼンテーションの方法』なんてパソコン雑誌がほとんど取り上げていないのはなぜなのか」(p.238)なんていう部分も、1998年8月のことですが、当時はそうだったんだなあ。今なら『パソコンによるプレゼンテーションの方法』なんて当たり前すぎる特集だしねえ。

 というような部分を紹介してしまうと、この本は現在では古いような印象を与えてしまうかもしれない。でも、文章が古びている感じはしない。それは、常に新しい機械をどのように使うかを考え、実行する山根氏の姿が、かつても今も古びないからだろう。
 そして、今読むと当時の提言が非常に的を射ている部分もある。例えば、
「アップル・ジャパンは、思い切ってアメリカの本社から独立しちゃいましょう。そして、マックの生みの親であるスティーブ・ジョブスさんをヘッドハントして、まったく新しい、本当に人生にも仕事にも役立つ個人のためのコンピュータを日本発で創造してはどうです」(p.159,1997年9月)
 という部分。当時はAppleがまだ低迷を脱していない時期で、ジョブスも復帰して間もないこと、そしてその後アップルがiMac、iTunes・iPodなどの商品を提供していくことを考えると、結果論かもしれないが先見の明があったと思う。
 それから、「日本製携帯電話はなぜ全機種、同じダサササササササいデザインなのか。携帯電話の製造部門にはまともな製品デザイナーはいないのか?」(p.301,1999年2月)という嘆きもあるが、これも今からすると隔世の感がある。そう考えると、当時携帯電話のデザインにまで目を向けていた山根氏は鋭い、と思う。

 また、未だ実現していない提案もある。そしてその中には、もしかしたら、これから本に書かれていることが実際に起こるかもと期待させてくれる部分もある。

 例えばカシオのデジタルカメラ「QV-10」用のシールプリンタ。「プリクラ」みたいなシールを打ち出せるプリンタです。これについて「この程度のプリンター内蔵のデジタルカメラが大普及する日も近い?」(p.59)とあるのだが、残念ながら未だその気配なし。しかし、これって面白いのではないか。今なら更にコンパクトなサイズのプリンタが作れる気がする。携帯電話やデジカメ内の画像データを小型シールに出力できるポータブルプリンタがあったら、私は欲しいです。

 もうひとつ、アマチュア無線について。1995年の阪神・淡路大震災では「携帯電話が非常に役立ったが」(p.45)、当時の時点でも「加入者が急増したため『回線殺到』で通じない可能性が大」(p.45)と心配されている。そして「携帯電話はあくまでも『1対1』の通信手段だが災害時には究明のための緊急通信が多くなるので、『1対1』ではなく、『1対多』の通信のほうが役立つのではないか」(p.45)。ということでアマチュア無線の免許取得のススメがされている。アマチュア無線では「『非常!』の声を聞いた無線局はその送信者の通信を優先することが電波法で決まっている」(p.46)というのは、初めて知りました。ちょっと、免許を取得したくなったくらい説得力があります。

 このように、今読んでも単なる懐かしさだけでなく、現在にも役立つ話が登場する面白い本でした。

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2002年5月6日(月)4月に読んだ本(フリートークにて)
山本一力『あかね空』(文藝春秋)
「直木賞を受賞した小説です」(平成13年度・第126回)
「珍しいね、そういう本を読むなんて」
「まあね。この小説、時代小説なんだけど、セリフやテーマは現代劇のような印象 を受ける。展開も速いです」
「じゃあ、ラストまで一気に読めるでしょ」
「そうだね。難点は色々あるんだけれど、話としては面白かったです。時代小説が 難しいと思っている人もとっつきやすいのでは」

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2006.11.29(水) なんだかんだ言っても、夢をかなえて成功した人間は偉い

オンライン書店ビーケーワン:天才になりたい・山里亮太『天才になりたい』(2006.11,朝日新書)
 漫才コンビ「南海キャンディーズ」の山ちゃんこと山里亮太氏の初の著書。
 最初に正直に書いてしまうと、刊行されるのを知った時点ではあまりいい印象がなかった。南海キャンディーズの漫才は好きだけれど、初の著作が朝日新書であるという鳴り物入りの雰囲気や、今の南海キャンディーズの人気を思うと、なんとなく嫉妬を感じてしまう。
 しかし、まず立ち読みしてみて、芸人を目指して大阪の大学に入学した頃から、南海キャンディーズを結成する前頃までの活動が興味深く、結局買って読むことにした。

 読んで思ったのは、「なんだかんだ言っても、夢をかなえて成功した人間は偉い」ということ。この本は山里氏の視点で書かれた内容だから、必ずしもすべて正しいとは限らない。例えば過去彼とコンビを組んでいた人は、異なる視点で山里氏について語るだろう。また、実際にはあったことでも、あえてこの本には書いていないこともあるだろう。
 それを差し引いても、この人は立派だと思う。「芸人になる」という目標を定め(「もてるため」という不純な動機であっても)、それを達成するために様々なことを考え、努力していく。お笑いの世界は「『必死』・『一生懸命』この単語が似合わない世界、『本当の天才』が創るべき世界」(p.46)だが、「必死に一生懸命に、張りぼてを立派にしていくことしかできなかった」(pp.47-48)という。この「張りぼての自信」とか、あるいは「偽りの天才」という言葉が何度も登場するが、これを作り上げることが自分が芸人として生き残っていくための方法、ということのようだ。
 具体的には、養成学校時代に毎回ネタ見せをすることや、「足軽エンペラー」というコンビの頃に、テレビ番組『ガチンコ!』に出演した時、わざと相方ともめているような演出をしたり(ただ、最後はネタ勝負で勝って優勝する)。他にも、業界人との交流をしたいという思いで、漫才の作家さんのアメリカンフットボールのチームに参加こともあったらしい。
 その様子を、人によっては計算高いと見るかもしれないが、私は一途で真剣だと思う。お笑い芸人として成功する、という目標の前では、他人からせこいと思われる程度なら恥ずかしくはないのだろう。法律やルールに違反しているわけではないのだし。
 また、そうした自信を作らざるを得なくするため、色々な方法で自らの「退路を断つ」ということもしている。千葉県で育った氏が、お笑い芸人になるために浪人して大阪の大学に進学した(ということは親御さんに相当な負担をかけている)ことや、大学の学生寮での自己紹介で「僕は芸人になるためにここ関西大学にやってきました」(p.31)と宣言したことなどは、その典型だろうと思う。

 そうやってまっすぐ進んでいると、人や運が味方してくれる。「僕は本当に運がいい。何より人との出会う運が抜群にいいと思う」(p.32)と書いているが、たしかに時々で色々な人に出会い、助けられていることが分かる。学生寮の先輩・後輩、NSC(吉本興業の養成学校)の講師(卒業間近にコンビを解散してしまった山里氏のため、「足軽エンペラー」結成を手助けしてくれた)、南海キャンディーズ結成当時、ネタをやる場所がなかった二人にライブを行う場を提供したバーとそのお客さん、コンテスト「M-1グランプリ2004」での準優勝後、増えた仕事とプレッシャーで「芸人を辞めようと考えた」(p.176)ほど落ち込んでいた山里氏が再び「お笑いが大好きになった」(p.177)きっかけを与えた芸人の友人達、などなど。

 これから、南海キャンディーズ、そして山里氏がどのように活躍していくかは、未来のことなので分からない。しかし、少なくとも私は彼らを応援したい気持ちが強くなった。

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2007.09.15(土)冷静な実況の根底にある、サッカーへの熱意

メキシコの青い空―実況席のサッカー20年 山本 浩『メキシコの青い空 実況席のサッカー20年』(2007年8月、新潮社)楽天ブックスオンライン書店bk1Amazon.co.jp

 著者はNHKの、いや日本のサッカー中継において、記憶に残る言葉をいくつも残している山本浩アナウンサー。この本では、1985年のW杯メキシコ大会のアジア最終予選から2006年のW杯ドイツ大会本大会まで、約20年間のサッカー界を、日本代表を中心に振り返る。
 この本の中には、山本アナウンサーがこれまで中継の中でしゃべってきた言葉が、いくつか紹介されている。それを読むと、自分が見ていない試合であっても、試合の様子が思い浮かぶ。それは、サッカー番組などで使われる過去の試合の映像に、山本アナウンサーの実況が流れることが多いからだと思う。それだけ、山本氏の実況と日本のサッカーが結びついていることを感じた。

 また、実況のアナウンサーという、選手とも監督とも観客とも異なる立場で見るサッカーの話は、また違った視点があって面白い。具体的には、実況では「他人にどう伝えるか」を考えながら試合を見て、実際に言葉にする必要がある。
 例えば、試合中プレーの動きが激しい時には、「選手の名前を口にするだけでスポーツの醍醐味の一部分、優れたチームの持つリズムを味わえる」(p.24)。それに対して、プレーが停滞している時こそ、実況の腕が問われる。「伝えるのは情報、分析、予測。それもどこかで眼前のプレーや試合とリンクしていないといけない。昔の話をとうとうと続けたり、数字ばかりを羅列したりしても見ている人の気持ちが次第に離れてしまう」(p.24)。ここが実況としての経験が出るところだという。
 また、「放送に対してうるさく感じる実況」(p.66)がある。その理由は、実況が「単純にいえば、エネルギーが正確に届けられないから」(p.66)。具体的なパターンとして、しゃべりすぎ(間がない、または起伏がない)、あるいは目の前のプレーに関係ない話をしてしまう、「眼前に演じられているプレーのグレードを超えた実況をしてしまう」(p.68)などが挙げられている。
 このあたりの話は、実況中継を担当するアナウンサーの方にも読んでいただきたいところ。

 比較的冷静に書かれている本なのだが、最後の「第四章 1400日をまたいだ自信」の、2006年ドイツW杯の部分では、山本氏のサッカーへの思いが他の部分よりも熱気を持って綴られている。
 ひとつは、ドイツW杯で勝利できずに終わった日本代表に対して。日本の選手は「おしなべてプロ化され、そしてあらんことか部品化の傾向を余儀なくされている」(p.274)。「そこには人間味や個性やサムライ精神は不要なものであるかのように映る」(p.274)。
 しかし、そうしてW杯に臨んだ日本代表は、「ドイツでは信じられない負け方をした。あってはならない形から混乱のまま敗戦を迎えた」(p.274)。サッカーは、理想的な環境下でのみ戦えるわけではない。「気象条件。内なる不安。相手の行動。オフィシャルの対応。(中略)不安定要因を踏み越えながら戦って発揮される実力が、『勝てる、勝てない』の境目を構成する」(p.275)。この環境下で勝ち続けることが、「結果を見なくても日本は『強い』と言われる時代」(p.275)のために必要である。

 そしてもう一つはサッカーそのものについて。「W杯決勝のあとの興奮は、いつもは格別だ。それがこの大会は後日テレビを通じて中継されるイタリアの祝賀式典にしか感じることができなかった」(p.283)。ドイツの組織委員会による「フーリガンの登場を許さない。スタジアムをサッカーを楽しめる場所にしたい。暴力と余分なエネルギーを取り除くために最大の努力を惜しまない」(p.283)という計画と実行は確実なものだったが、「かつて地響きの伝わったスタンドは、一切震えることもなくなった。野蛮な声の固まりは、スタジアムの外からは聞こえなくなった」(p.283)。
 著者はそれを、次のような言葉で表現し、この本を締めくくっている。「歓声と拍手と口笛と、そして光の瞬き。W杯を商品としてグレードアップさせるのと引き替えに、勝利に対する熱と渇きをどこかに置いてきてしまったのかもしれない」(p.283)。
 こうした考え方には賛否両論があると思う。でも、グラウンドも客席も含めて、洗練されていないサッカー(それはひょっとしたら、かつてのサッカーなのかもしれない)が持つ魅力について、考えさせられる部分だった。こうした、山本アナウンサーの冷静な実況の元にあるサッカーへの熱意が、特に印象的だった。

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2002年12月1日(日) 「笑い」にまつわる3冊(の1冊)
夢路いとし・喜味こいし『浮世はいとし人情こいし』(2002,中央公論新社)
 関西漫才界の大御所、夢路いとし・喜味こいしの「しゃべくりエッセイ」(帯より)。 読売新聞の大阪府内版と兵庫県内版に連載されたもの。俺も読売新聞を読んで はいるが、東京の江東版なので、こういう連載があったなんて知らなかった。
 2人の半生・戦時中の話・趣味の話・家族の話・そして2人も経験した阪神淡路大 震災の話・などなど、様々な話題が語られる。
 いとし・こいしの2人がしゃべっているのを想像しながら読むと、面白い。いとし・こ いしの漫才は、最近の若手のようなスピードの速さやテンションの高さが売りでは ない。しかしなんともいえない味や、独特のテンポに、思わず引き込まれる面白さ がある。これは長い芸歴から生まれたものだろう。
 中には、今の世の中や最近の若い人に対する苦言もあるのだが、なぜか2人の 語り口だと素直に聞けてしまう。これは不思議な魅力だよなあ。
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2002年8月11日(日) 一挙4冊を紹介であります(の1冊)
横田順彌『火星人類の逆襲』(1988年,新潮文庫) 古本

 明治時代を舞台に、押川春浪など実在の人物を登場させたSF小説。押川春浪 や明治時代をあまりよく知らない人も、SF冒険活劇として楽しめる。H.G.ウェル ズの『宇宙戦争』で地球(イギリス)に侵略し、敗れた火星人類が、再度東京を襲 う。しかも、イギリスで敗れた原因となった「あるもの」もきかなくなっている。そこで 押川春浪率いる「天狗倶楽部」の面々が、知恵と勇気を振り絞り、火星人類退治 を試みる! どうですか、面白そうではないですか。さらに、横田順彌の明治研究本を読んで いると、さらに楽しい。なにしろ、登場人物のほとんどが明治時代に実在し、横田 氏が紹介しているのだ。その人物が小説の中で冒険を繰り広げるというのは、な んとも楽しい。また、明治時代の世の中の風俗も丁寧に描かれているので、それも 好きな人にはたまらないでしょうな。
 ということで、目一杯楽しみました。

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2004年4月7日(水) やっぱり古本だよ!
横田順彌『古書ワンダーランド@』(2004年,平凡社)
 小学館のPR雑誌『本の窓』に連載しているものを中心とした古書にまつわるエッ セイ集。「まえがき」によれば「約五十年間の古書収集過程で掘りだした、奇想小 説とは無関係のものも含む、大爆笑・信じられない内容の珍本・稀本・説明不可能 な本、あるいは体験などをリアルタイムで笑い話中心にまとめたもの」(pp.3-4)との こと。
 まさにその通りなのである。俺はほとんど読んだことのない、明治・大正・昭和も 戦前の本が中心だが、それをここまで面白く紹介する選書眼(本を選ぶ視点という 意味で俺が勝手につくった言葉です)、文章のうまさは、著者ならでは。明治時代 の研究者としての横田氏の生真面目さと、かつてのユーモア作家としての氏のサ ービス精神と、両方の魅力が発揮されている。
 紹介されているのは、次のような本です。

・「百円の座右の書」(p.42)。古書店・古書展で安く手に入った面白い本の話。
・「ジャップ・ミカド−野茂英雄の大先輩−」(p.80)。大正初期の1920年代に、アメリ カのプロ野球選手として活躍した三上吾朗氏について、様々な資料と多くの人々 の協力によって調べていく。「ジャップ・ミカド」というニックネームしかわからない状 態から、ついに名前を突き止める過程は、なんともわくわくする。
・「柳文庫の恐怖と不思議」(p.172)。「ほととぎす」「金色夜叉」などのパロディ本を揃 えた「柳文庫」の紹介。「恐怖」というのは、なぜかどの本も表紙が四〜五頭身の似 たような女性の絵であること(横田氏曰く「これじゃドラえもんだ」(p.176))。「不思 議」とは、どの本にも当時の有名作家の作品が付録として載っていること。表題作 よりも付録の方が有名なのである。
・「「?」の本の読み方」(p.240)。H.G.ウエルズの『透明人間』のおそらく本邦初訳の 表題が『?之人』であったという話。それも訳者の『見えない人』という案が出版社 の希望で差し替えられたらしい。
 そして別の出版社が、同じウエルズの『タイムマシン』の訳本『八十萬年後の世 界』の表紙に「?」マークを書いたというエピソードも登場する。
・「砂の上の歩き方」(p.209)。明治から昭和にかけて活躍した作家伊藤銀月の「旅 行者寳鑑(宝鑑)」の紹介。この「◎旅行の方法に就いての心得」の「其十七 路の 歩き方」がすごい。全部で十四項目あるのだが、これが「(一)足の運び方」、「(二) 出始めの歩き方」、「(三)草臥(くたびれ)たる時の歩き方」
という具合に、なにもそこまでという感じで続く。

 というような感じで、まことに愉快なエッセイが全部で45本収録されている。定価 2400円とちょっと値は張るが、好きな人には絶対にお得だと思う。
 ただし、この本を楽しむには、古本、または明治・大正の世相に興味があること、 旧かな旧漢字の文章にアレルギーがないことが条件になるかもしれない。原文の 引用は、旧かな旧漢字だからね。
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2004年4月24日(土)今日もまた本の本
横田順彌『雑本展覧会〜古書の森を散歩する』(2000年,日本経済新聞社)
 著者の横田氏はSF作家であり、最近は押川春浪をはじめとする明治・大正のSF 史、世相史の研究でも知られている。
 この本は、著者のもとに集まった古書を紹介する本。明治・大正から戦前の昭和 くらいまでの本が中心。あとがきには「これまでに他書で紹介した本は、どうしても SF関連本が多くなってしまったが、本書は著者たちには申しわけないが、一部を 除き、本当に雑本ばかりだ」(pp.268-269)とある。しかし、個人的にはこういう本こ そが面白いと思う。そしてそれらの本に他の人なら見落としてしまうような価値を見 出すというのは、著者ならではの魅力だよなあ。
 例えば、「有名作家の無名の作品」(pp.66-69)から。海野十三(日本SFの元祖と も言われている)の最初の単行本が「麻雀の遊び方」(昭和5年)だったなんて、意 外な話だった。
 また、紹介される本だけでなく、著者が色々な本を手に入れたり手に入れられな かったりする話もまた面白い。著者の集める本のジャンルと、俺が買うジャンルと は違うのだが、それでも人と本との出会いの様子は面白い。古本好きには同じよう な血が流れているのではなかろうかと感じさせてくれる。
 古本好き、明治・大正の社会(市井の人々の生活)の様子に興味がある人には 特におすすめ。
 なお、初出は「第I部 探書遍歴」が1996年1月から1999年3月まで「日本経済新 聞」日曜版の「書林探訪」に隔週連載したもの。「第II部 旧聞異聞」が1995年4月 〜1998年12月に「月刊 ちくま」(筑摩書房)に連載されたものの抜粋。
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2003年2月7日(金) 本が読みたくなる2冊(の1冊)
横田順彌『探書記』(1992年,本の雑誌社) 古本
 作家横田順彌氏が、古本を探し、買い、読む日々の記録。主として、氏の研究分 野である押川春浪をはじめとする明治時代の冒険小説・スポーツ・世相風俗に関 する本が紹介される。
 この分野は、他の分野に比べて本を収集している人が少ないようだ。それだけ に、必要な本・欲しい本を探す苦労は並でないことがひしひしと伝わる。しかしそれ ゆえに、新しい発見があった時、思ってもみなかった本が見つかった時の氏の喜 びようは、読んでいるこちらの気分まで高揚させてくれる。
 例えば、現在の5000円札に肖像画が描かれているあの新渡戸稲造が、明治44 年に「東京朝日新聞」が行った「野球と其害毒」という野球批判のキャンペーンに参 加したなどという、新渡戸稲造の伝記にもほとんど出てこない事実を突き止め、発 表しているのである(ちなみにこのときに野球推進側の中心にいたのが、押川春 浪であった)。
 その他にも、あのグレイシー柔術の祖である日本人柔道家、前田光世(別名コン デ・コマ)や、あの星新一氏の父、星一氏のエピソードも紹介される。
 それから、あの(さっきから「あの」ばっかりだな)、「と学会」の発足のきっかけに なった同人誌、藤倉珊『日本SFごでん誤伝』(1989,TDSF叢書発行委員会)も紹介 されている。この本、まさに現在の「トンデモ本」紹介の元祖のような内容である。 そしてこの本は、横田氏の『日本SFこてん古典(1〜3)』(1980-1981年,早川書房 /1984-1985年,集英社文庫)のパロディなのである。ちなみに、『こてん古典』は、 明治から太平洋戦争直後までの日本SF関連のへんてこな本を紹介したものであ る。
 明治時代に興味がない人でも、古本が好きな人にとっては、氏が古本について 一喜一憂する様子が面白く読めるだろう。
 実は俺は、この本の文庫版である『古本探偵の冒険』(1998年,学陽文庫)を学 生の頃に図書館で借りて読んだことがある。当時は横田氏のこともほとんど知らな かったのだが、この本を読んで一気に氏のファンになった思い出がある。今回再 読してみたが、やっぱり面白かった。自分の好きなものについて語ることで、興味 がなかった人に興味を起こさせる力は、さすがだと思う。
 ちなみに、氏の明治もののノンフィクションでは、ちくま文庫から出ている『明治バ ンカラ快人伝』(1996年)『明治不可思議堂』(1998年)が比較的手に入りやすい かと思うので、興味がある人はどうぞ。

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2003年1月24日(金) 1980年代日本SFを振り返る2冊(の1冊)
横田順彌『ヨコジュンのわんだあブック』(1985年,角川文庫) 古本
 さまざまな雑誌に掲載したコラムやエッセイ・テレビ評・身の上相談(といっても冗 談みたいなもの)・リレー小説に座談会と、なんともバラエティに富んだ本。
 「ハチャハチャSF」(一種のユーモアSF)作家としての全盛期の文章だけに、非常 に面白い。もちろん今でも明治時代のSF小説研究や、明治を舞台にした小説、古 本に関するエッセイなどで活躍中の氏だが、この頃はまた違った魅力がある。
 とにかく、どの文章にも「あはは」と笑える面白さがあり、同時に「なるほどねえ」と 思わされる知識や考え方がある。特に身辺雑記のようななにげない文章や、テレ ビ評などが、当時の横田氏や、世の中の様子がわかって特に興味深いな。

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2003年2月11日(火) 旅に出たくなるかもしれない2冊(の1冊)
横田順彌『人外魔境(ロストワールド)の秘密』(1991年,新潮社) 古本
 押川春浪をはじめとする天狗倶楽部の面々が、南米アマゾンの謎の大地で太古 の恐竜を探す大冒険! と書いても、知らない人は「ふうん」と思うだけであろう。と いうことで、少し説明を。
 押川春浪は、明治時代にSF小説の元祖とも言うべき『海底軍艦』などの小説を 書いた作家。ただし、単なる作家にとどまらない幅広い活躍をした。詳しくは横田 順彌・会津信吾『快男児 押川春浪』(1991年,徳間文庫)他の、横田氏の明治時 代に関する本を読んでもらうと、より詳しくわかる。そして「天狗倶楽部」とは、押川 春浪を中心とした、スポーツ愛好家、バンカラの集団である。
 つまり、実在した人物がフィクションの世界で活躍するのである。人物の設定に は誇張されている部分もあるようだが、ほぼ実在した人物に忠実に描かれてい る。これは横田氏の研究の成果がいかんなく発揮されている。
 そして、このフィクションの世界もまた魅力的。「ロストワールド」でピンと来る人も いるかもしれないが、これはコナン・ドイルが1925年に発表した小説である(『失わ れた世界:ロストワールド』(1996年,ハヤカワSF文庫)が一番手に入りやすいか な)。コナン・ドイルというと、どうしても「シャーロック・ホームズ」シリーズが有名だ が、SF作品も書いているのである。『ロスト・ワールド』は、南米の人類未踏の大地 にいるという恐竜を探して探検に出るという内容。『人外魔境の秘密』では、その 『ロスト・ワールド』が実際の出来事として語られる。その真偽を確かめるため、押 川春浪をはじめとする面々が恐竜のいるとされる南米の台地に旅立つのである。
 どうだろう。コナン・ドイルも押川春浪もあまり知らない人も、このあらすじで少し は興味を持ってくれるのではなかろうか。この小説は、とにかく冒険小説としてとて も面白い。読み進むにつれて、わくわくしてきて、とにかくはやく続きが読みたくな る。台地に住む人々との出会い・交流、春浪たちの行く手を阻むドイツ軍、そして 台地に生息する恐竜たちの迫力。魅力的な舞台がそろっている。
 また登場人物も、あのグレイシー柔術の祖である前田光世。明治時代に自転車 で世界一周旅行を達成した中村直吉など、これまた魅力的。この本を読むと、きっ と登場人物などに興味がわくはずだ。そうしたら、横田氏の他の著作も読んでみて 欲しい。更に彼らの魅力に触れることができるだろう。
 なお、押川春浪の作品は、青空文庫で「本州横断 癇癪徒歩旅行」がオンライン で読める。興味がある人はこちらもどうぞ。

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ドラえもん学2005.06.25(土) 「ドラえもん」のすごさ、面白さを、あらためて知りましょう。
横山泰行『ドラえもん学』(2005.5,PHP新書)Amazon.co.jpbk1
 著者は「ドラえもん」の全作品を収集し、「ドラえもん学」を設立した富山大学教育学部教授。その著者が、ドラえもんの魅力を分析したのがこの本。そのため、並の「研究本」よりも一段階質の高い、興味深い内容となっている。

 「第1章 ドラえもんの来た道」は、ドラえもんの誕生の経緯から、大人気作となるまでの歴史の概略。「第2章 『マンガ世紀』のドラえもん」は、掲載雑誌・単行本の売上や、海外への普及についての紹介。そして「第3章 あらすじで読むドラえもん」は、作品中の様々なエピソードを元に、キャラクターの魅力を考察している。

 中で最も興味深かったのが、第2章での、なぜ欧米では「ドラえもん」が普及しないのか、そしてどうすれば普及する可能性があるのか、という分析と仮説である。ちなみに欧米では、イタリアでアニメの放映が、スペインでアニメの放映とマンガの翻訳がされているのみである。アジア圏に漫画版が普及しており、中南米の多くの国で、漫画こそ輸出されていないものの、アニメが普及しているのと比べて、対照的である。
 その理由は、「ドラえもんがすぐにのび太を助けてしまうので子どもの自立心を奪う」(p.137)というものらしい。
 これを認めた上での、著者の意見は次の通り。短編のマンガ・アニメではなく、映画版の原作でもある大長編が欧米で翻訳されていれば、また別の評価がされたのではないか、というもの。なぜなら「主人公たちがみずからの力で厳しい冒険を乗り切り、一人ひとりが一歩ずつ着実に成長していく姿が生き生きと描かれている」(p.60)からである。
 たしかに大長編ドラえもんは、現在人気の欧米のファンタジー小説にも劣らないだけの魅力を持っている。この意見を現実的に検討することも、興味深いと思う。

 その他にも、本で紹介されているするデータを読むと、色々と意外なことが分かる。
 例えば、「ドラえもんの新作短編は、1991年でほぼ終わっていた」ということ(p.73)にはちょっと驚いた。それ以降F先生は、亡くなる1996年まで、大長編ドラえもんだけに集中されていたのであった。
 もちろんその間も、『コロコロコミック』や小学館の学年誌(『小学○年生』)にドラえもん短編は掲載されていたが、それは過去の作品の再録だったんだねえ。
 ドラえもん好きにとっても、ドラえもんを知っている程度の人にとっても、興味深い本だと思います。

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2005.4.22(金) 再録「なぜか『Deep Love』を読む」
 これは、俺がコラムを書いている「日刊 耳カキ」で掲載した「なぜか『Deep Love』を読む」(全四回)の再録です。「日刊 耳カキ」からは、時々なぜか俺が読みそうにない本がある日突然送られてきて、その度に右往左往することがあります。この本もそのひとつでした。
−−−−−−−−−−
(第一回)
 ということで。 毎度毎度およそ俺の読書傾向とはあわない本が送られてきまして、また俺も律儀で貧乏性なので読んでしまうのですが。今回はすごいよ。この本です(↓)。
オンライン書店ビーケーワン:Deep love・Yoshi著『Deep love』(2002.12,スターツ出版)
 いやあ、読む前から気が重くなります。
 著者紹介の、「本を読まない人達のミリオンセラー作家」という肩書きと、すかした写真。帯に書かれた女優菊川怜女史の「こんなにピュアな愛に触れたのは初めてです」の推薦コメント…。
 …もう、十分だよ。読みたくねえよ、こんな本。

 でも、読むんだよ。

 さっそく読んでみました。

 二時間後。

 なんと逆転ホームラン。 これは傑作かもしれない! 読みもしないで敬遠して悪口言ってごめんなさい。感動しました。ちょっと泣きました。みんなもぜひ読んでください。「こんなにピュアな愛に触れたのは初めてです」。

 …そんなわけねえだろ! 面白いわけないだろ。そんな奴おれへんやろ。

 しかし、なぜこの「本」が「本を読まない人達のミリオンセラー」になったのかは、なんとなく分かった。
 そこで今回は、木の葉燃朗が、「なぜ『Deep Love』は本を読まない人に読まれているのか」という謎を解き明かしていきます。今回の感想文を読めば、本を読まない人向けのベストセラーが書けるかもしれないし、書けないかもしれない。たぶん書けない。
−−−−−−−−−−
(第二回)
 さて、ひょんなことから『Deep Love』を読んだわけですが、いきなり大胆な仮説をぶち上げましょう。

「『Deep Love』は小説ではない!」

 なんかこのハッタリかました感じ、いいなあ、我ながら。
 なぜそう思ったか。これには理由があります。『Deep Love』は、文章の構成というかルールが、普通の小説とは違うのである。そしてこれが、『Deep Love』の特徴である。
 例えば。

1.文章が横書き。したがって当然本も左開き(左のページの方が、ページ数が若い)2.主人公アユのセリフは、すべて『 』で囲まれている(他の人物は「 」)3.小説の中に、「ここで著者が言いたいこと」が、< >に囲まれて書かれちゃっている。

 あ、上のは、「鉄拳の『こんな本は、たき火にくべてやる』」というネタではないです。全部この本で本当に使われている「テクニック」です。
 特に3はねえ、衝撃的だった。「そんなことやっていいの!?」と思った。例えばこんな部分。主人公アユが、拾った子犬パオとともに、居候先の家主のおばあちゃんとの話を聞くシーン。おばあちゃんが戦時中のつらい思い出を話している。

「それ以上は、もう言葉にならなくなり、おばあちゃんはその場に泣き崩れた。(中略) まだ起き上がれないはずのパオがヨロヨロと歩き出した。そして、おばあちゃんに近づくと切れた舌で、しわだらけの手をまるで慰めるかのようになめた。

<パオにはきっとわかったんだろう。そう、おばあちゃんの悲しみが……>」(pp.38-39)

 この<パオには…>が、著者の言いたいことです。普通なら読者が考えるだろうことが、堂々と書かれています。
 そこ、書いちゃダメだろう。
 後半になると、もっと直接的に、著者のお説教というか、お言葉というか、ご神託というか、そんなものが登場する。

「<ほとんどの人がそうだろう。生きていることを当たり前だと考えている。まるで永遠に生きていくかのように……死について考えることもせず、ただただ消費していく……。一度しかないのに……永遠ではないのに……>」(p.124)

 小説の読み方が分からない人にとっては、すごく読みやすくなっているわけです。読みながらあれこれ考えなくていいわけですからね。そう、「あれこれ考えなくていい」。これもまた、『Deep Love』の大きな特徴なのです。
−−−−−−−−−−
(第三回)

 はいどうも。「珍本探偵ブックパラパラ」こと木の葉燃朗が、「なぜ『Deep Love』は本を読まない人に読まれているのか」という謎の解明に挑んでおります。

 前回、「『Deep Love』は小説ではない!」という仮説について考えました。続いて「『Deep Love』を読むときはあれこれ考えなくていい」という点を紹介しようとにしたところでした。

 しかしその前に、一応「『Deep Love』ってどんな話よ」って紹介をしておきましょう。ストーリー紹介をすっかり忘れていました。
 ちなみに、この先は『Deep Love』の完全なネタバレです。あと、身も蓋もない書き方をします。
 このコラムを読まれる大多数の方は『Deep Love』読まないだろうから、別に問題ないのですが、「ちょーこれから、ちょー『Deep Love』、ちょー読みたい」というコギャル、ギャル男、「ギャル男じゃないよ、元ギャル男」の芸人さんなどは読み飛ばしてください。

●17歳の女子高生アユは、売春・ホストの健二との同棲・薬物使用などをしている。
→アユは、怪我をした犬パオをきっかけに、知り合ったおばあちゃんの家に居候する。
→アユはある時、健二が薬物欲しさにホストクラブから盗んだ金の埋め合わせのため、おばあちゃんの貯金を盗む。
→おばあちゃんはアユのお金を盗んだ告白を聞き、なぜ貯金をしていたかを話した翌日、急逝する。また借金を返さなかった健二も、自殺か他殺かはっきりしない状況で死ぬ。
→おばあちゃんは、捨て子で、かつて自分が育て、現在は実の親に引き取られた病気の少年義之の手術代として、貯金をしていた
。→アユはおばあちゃんの代わりにお金を貯め、義之に手術を受けさせようと決意する。
→アユは売春をやめ、居酒屋でアルバイトをして、おばあちゃんのいた家にパオと住み、質素な生活で貯めたお金を、義之の父親に預ける

→アユの親友レイナは、性交した男の彼女に逆恨みされ、強姦される。その際に妊娠するが、子どもを生むことを決意する。
→義之とアユの間に、恋心が芽生える。アユは義之を連れて沖縄に旅行に行く。
→沖縄から東京に帰ってくると、アユは義之を誘拐した罪で警察に補導される。
→アユは義之と再会することが出来ないが、アユは義之の父に金を預け続ける。しかし、父親はその金を使い込んでいる。
→金を貯めるため、アユは再度売春を行う。それが原因でアユはエイズに感染し、パオとともに死ぬ。
→アユと性交をしていた義之の父親もエイズに感染し、義之にすべてを話て自殺する。
→アユの死後、レイナがアユについて調べる。アユの両親は離婚し、アユは母親とともに義父・義兄と暮らし、その中で義父・義兄・実母に売春をさせられ、義父には強姦されていたことが分かる。
→青山墓地の近くで、義之・レイナと「アユ」と名づけられたレイナの娘がすれ違う。

 以上、「5分で分かる『Deep Love』」でした。ちゃんと読んでも2時間かからないけれどね。 さて。上の要約を読むと、なかなか壮絶な物語という印象を持つかもしれません。しかし実際に読むと、不思議とそういう気持ちは起きません。
 なぜか? それが、「『Deep Love』を読むときはあれこれ考えなくていい」一番の理由なのです。
−−−−−−−−−−
(第四回)

 木の葉燃朗です。なぜ本を読まない人間が『Deep Love』に「感動」するのかを考えていますが、本日最終回です。
 いよいよ、俺が考える「『Deep Love』を読むときはあれこれ考えなくていい」理由を紹介します。 ズバリ!

「『Deep Love』には、書いてあることしか書いていない」

 …たぶん、読んでいる多くの人が鼻で笑ったことでしょう。 しかし、よく思い出してください。あなたがこれまで読んだ小説で、「書いてあることしか書いていない」ものがどれだけあったのか。
 どんな小説でも、いわゆる「行間を読む」とか、「文面には表れないあれこれを想像させる」とか、そういうのがあるんじゃないでしょうか? たとえ素人が書いた、読む方が恥ずかしいような出来の悪い「小説」であったとしても。

 『Deep Love』には、ないんです。

 だいたいね、行動も「泣き崩れた」とか「両目いっぱいに涙を溜めていた」とか「たまらなく愛しさを感じ始めていた」とか、そのまんま。セリフも情景描写もそのまんま。 だから、書いてあることを「へー」、「ほー」と読むしかない。まさに「『Deep Love』を読むときはあれこれ考えなくていい」んです。頭を使う必要がない。 驚くほど早く読める理由もここにあります。そして、読んでいてらくちんです。全然楽しくないけれど。

 しかし、これまで本を読んだことがない人が『Deep Love』を読んで感動するというのは、これは危険ですよ。思考停止の(そもそも動いてすらいない)頭へ、著者の書いた文章が流れ込む。その中には、文中に挟まれた著者の「ご神託」もあるわけです。それが、疑うこともなく頭の中にたまっていく。
 そんな経験を通じて、著者と同じ考えを持った若者が量産されかねない。そうやって、本を読まない若者を一気に洗脳して、そして扇動して、日本を征服しようというのが著者の意図じゃないのか…? 一番初めに俺が書いた、「『Deep Love』は小説ではない!」という違和感も、この「本」が洗脳ツールだとしたらつじつまがあうわけで。

 うわー、こりゃえらいこっちゃ!


 …というのは俺の暴走した妄想。しかし、読む側が勝手に洗脳されている部分はあるだろうし、著者がなにかをくわだてている可能性も否定できない。ラジオ局の株買い占めとか。それはないと思うけれど。
 でも著者が自分の「読者=信者」を使ってお金儲けできる可能性は高いよな。 まあ、そんな風に『Deep Love』の内容とは全然関係のないあれこれを考えさせてくれました。ちなみに、『Deep Love』の中身については、もう既に忘れ始めています。
−−−−−−−−−−
 さて、次はどんな本が来るのだろうか。気になる。
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2006.04.19(水) 芸人の迫力、そして悲しさを感じる。
オンライン書店ビーケーワン:完本・突飛な芸人伝・吉川潮『完本・突飛な芸人伝』(2006.3,河出文庫)
 総勢20名の芸人についてのエピソードを紹介した本(目次は最後に紹介します)。
 非常に面白く、かつ切ない。春風亭昇太師匠が解説で書いているが、「ここに書かれている芸人の生き方が、破天荒に映る方も沢山いらっしゃると思うが、破天荒でない芸人は存在しない」(p.295)のである。だから、失礼ながら「もしも芸人以外の仕事に就いていたら大変だろうな」と思う人物も登場する。しかしそれこそが、芸人としての魅力なのであり、皆芸人こそが天職なのだと思う。

 それぞれのエピソードで印象に残った部分を。
 一番初めの月亭可朝氏の「借金のタンゴ」では、野球賭博の話が出てくる。それまで野球のルールも知らず、「あるスナックで阪急の山田さんいうて紹介されたんですわ。わし、野球知らんから、阪急はデパートでっか、電車のほうでっか? 聞いたら、野球ですねんいいよる」(p.14)というような可朝氏だが、野球のルールや選手を覚え、そして大阪府警に逮捕される。
 その取調べの中で、「競輪や競馬はよくて、野球賭博はどうしていけないのか」(p.10)、「野球賭博は暴力団の資金源になるからいけないのだ」(p.10)というやり取りの後、可朝氏はこう言ったという。
「そら、負けて賭金を取られた場合でっしゃろ。わしは勝っとるから暴力団から吸い上げとる。表彰してほしいくらいのもんや」(p.11)
 どこまで本当か分からないが、すごい話だよなあ。

 それから、テレビや舞台で見せる姿が、仮の姿であることを感じさせるのが「八つの顔の男だぜ−林家木久蔵」と「浪速アホ一代−坂田利夫」。当然、両氏とも第一線で長く活躍していることから分かるように、イメージされるような「バカ」、「アホ」ではないのである。
 木久蔵氏がラーメン好きであること、映画マニア(特に日本の時代劇)であることは俺も知っていた。絵が達者であることも。
 でも、心霊学を研究していたり、発明にも凝っていたことは知らなかった。それから、この本では取り上げられていないが、株の本も書いているんだよなあ。
 坂田氏は、実際に暮らすマンションとは別に、結婚したときのために一軒家を持っているのだが、テレビの取材でその一軒家に向かった際「久しぶりの我が家なので道に迷ってしまった」(p.267)という、らしいエピソードもあるが、芸の話になると「自分は納まる芸人のタイプではない。/もっともっとアホにならなあかん。/恥ずかしいと思い始めたら芸人をやめる」(p.272)という言葉が出てくる。芸に対して真剣なのである。
 テレビとの違いといえば、桂小枝氏が高座でどんなネタをやるか、この本ではじめて知りました。テレビでは落語よりもレポーターとして見ることが多いので、まさかそんなだとは。

 また、芸人というのは、やはり色々な意味で普通ではないと思わされる話もある。その点で一番印象に残るのは「究極の貧乏−祝々亭舶伝」である。祝々亭舶伝氏は以前の桂春輔氏。高座の様子も、それ以外のエピソードからも、まさに奇人といった印象を受ける。
 三代目桂春団治氏の弟子だったが、休業して一時日活の大部屋俳優になり、特にスタントマンの役には志願して出演したらしい。その後落語家に復帰するが、仕事が少なく、著者をして「故古今亭志ん生の自伝『びんぼう自慢』も明るい貧乏話だが、春輔も負けてはいない」(p.95)と言わしめる貧乏ぶりだったそうだ。
 本編はそこまでで終わっている。しかし附記で、その後春団治氏の行きつけの飲み屋で自分の落語会の切符を売ろうとして、それまで積み重なったしくじりもあり破門され、名を祝々亭舶伝と改めたことが書かれている。その時点で音信普通になったとのこと。そして追記で、著者が知人から「ガンに侵されて入院していると聞かされた」(p.98)そうだが、詳しい情報は分からないらしい。
 「芸人らしい」という言葉で片付けてしまえばそれまでだが、なんだか悲しい。そして、こうした本にも取り上げられずに芸人を廃業していく人や、寂しい晩年を送る人もいるのではないかと思うと、芸人というのは、やはり普通ではないと思う。

 だから、この本に出てくる「ちょっといい話」は、余計に泣ける。
 「与太郎の青春−柳家小三太」(pp.100-115)は、俺は柳家小三太氏を初めて知ったのだが、この本によればとにかく落語が下手らしい。なにしろ著者が真打披露パーティで「いつトチるか、はらはらドキドキ、子供の学芸会を見ているような気持ちになります」(p.114)と祝辞を述べているくらい。でもその小三太氏が、愛される人物であることが描かれる。特に結婚のくだりは、いい話だ。
 「音頭とるなら−桂文福」(pp.146-160)の中の、なんば花月の独演会に地元和歌山から800人近くが来たというエピソードも、これまた文福氏のことを実はこの文ではじめて知った俺だが、ちょっと泣けた。
 「ベビの軌跡−ショパン猪狩」(pp.206-218)での、東京コミックショーの故・ショパン猪狩氏と奥様(最後の頃に「レッドスネーク、カモン!」のヘビの役をされていたのは奥様)の仲のよさも、印象に残る。東京コミックショーは子どもの頃にテレビで見たこともあるから、懐かしかったなあ。

 読む前は、知らない芸人さんもいるしなあ、とちょっと躊躇していたのだが、知っている芸人さんの話も、知らない芸人さんの話も面白く、読んでよかった。

 なお、元は『芸人奇行録・本当か冗談か』(1998年,白夜書房)のタイトルで刊行され、新潮文庫からも『突飛な芸人伝』(2001年)のタイトルで刊行されています(現在は品切れのようです)。しかし新潮文庫版では早野凡平・林家正楽・春風亭梅橋の三氏が外れています(現役の芸人という枠でまとめたためらしい)ので、今回の河出文庫版を読まれることをお薦めします。

(目次)
借金のタンゴ−月亭可朝/ 川柳の賛美歌−川柳川柳/ 八つの顔の男だぜ−林家木久蔵/ 野球狂の唄−ヨネスケ/ 喧嘩エレジー−石倉三郎/ 究極の貧乏−祝々亭舶伝/ 与太郎の青春−柳家小三太/ 男の顔は履歴書−マルセ太郎/ 神様のヨイショ−古今亭志ん駒/ 音頭とるなら−桂文福/ 歌舞伎座の怪人−快楽亭ブラック/ ホラ吹き男爵−ポール牧/ ドツかれる女−正司敏江/ ベビの軌跡−ショパン猪狩/ 白塗り仮面−桂小枝/ 春日部の名士−林家正楽/ 六甲おろしに颯爽と−月亭八方/ ホンジャマーの男−早野凡平/ 浪速アホ一代−坂田利夫/ 酒と馬鹿の日々−春風亭梅橋

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オレもサッカー「海外組」になるんだ!!!2007.04.27(金) たとえアマチュアでも、華麗なプレーでなくても、経験した人だから分かる海外移籍の喜怒哀楽
吉崎エイジーニョ『オレもサッカー「海外組」になるんだ!!!』(2007.4,パルコエンタテインメント事業局)
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 吉崎エイジーニョという、ちょっと変わった名前のこの方は、サッカーの記事を専門とするスポーツライター。ちなみに「エイジーニョ」はペンネームで、ご本人は日本人です。
 そしてこの本は、2005年〜2006年にかけて、吉崎氏がドイツリーグのクラブチームでプレーした記録を綴った本。
 と書くと、「おおすごい、スポーツライターとサッカー選手の二足のわらじか!」と思う方もいらっしゃいましょうが、所属したのはアマチュアの10部リーグ。
 すると今度は、「なーんだ」と思う方もいらっしゃいましょうが、侮ることはできない。たしかにアマチュアだし華麗なプレーは少ないし、「町内対抗サッカーリーグ」(p.3)の規模ではあるが、そこにはプロ選手の活躍するトップリーグ(ドイツなら「ブンデスリーガ」)と同じシステムがある。著者の表現によれば、「私レベルのド下手プレーヤーでも、リーグ戦を経験できる。『する』環境があること。この点を、声を大にして言わなければならない。90分の長さ、ホームとアウェーの違い、リーグ戦の苦しさ、移籍……これらを直接体感できるんです。サポーターも同じです。自分の街にホームゲームがあり、パパが移籍しちゃう」(p.283)環境があるのである。
 その中に挑戦した著者も、様々な経験をする。言葉の壁、ケガ、試合に出られない日々、移籍の決断とギリギリまで次のチームが決まらない状況。そして移籍先での試合デビュー、更には前所属チームとの対戦、などなど。リーグの規模もプレーのレベルも全然違うが、そこにはJリーグから海外に挑戦するプロサッカー選手と同じような出来事が起こり、同じような喜怒哀楽があると言っても過言ではない。
 だからこの本を読んでいくと、だんだん選手を見るサポーターの目線で吉崎氏を見るようになってくる。ドイツに渡って約半年でようやく機会を得た試合出場の場面や、シーズンの最後に待ち受ける「サッカーの神様っているのかも」と思わせてくれるような出来事を読むと、感動してちょっと泣ける。
 そして、そうした経験から出てくる実感の数々は、説得力がある。「既婚と未婚ではプレーに及ぼす影響は大きく違うと思う。常に言葉を交わしながら、ああだこうだ言える存在の有無は、大切なものです」(p.71)とか「日本人にしちゃ、度が過ぎると思うくらい『こうやりたい』ってことを主張しなきゃいけないんだ。じゃないと、分かろうとしてはくれない」(p.273)とか。
 「31歳、仕事も恋もボロボロの東京ライフを送っていた。世にいう『負け組』なんだろう」(p.10)という状態から変わるための決意と行動力、そしてそこで得た経験、純粋にすごいと思う。そして、これからの吉崎氏のジャーナリストとしての活動にも、期待ができる。

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2005.07.07(木) 路上観察のツッコミ隊長の真髄
・吉村智樹『吉村智樹の街がいさがし』(2005年,オークラ出版)
 街に存在する、変な看板・貼り紙などの物件を探し続け、写真に取り続け、ツッコミ続けた記録をまとめた本。
 まずは、著者の街の変なものを見つけ出す嗅覚にビックリする。各物件の大まかな所在地も記されているのだが、東京都内が中心とはいえ、ひとりで探すには十分なほど幅広い。その中で、見ただけで思わず笑ってしまうような写真を撮影し、次々と紹介している。また中には、一階がラーメン屋で二階が接骨院という建物を発見し、「あ、まさか! 仕入れは二階で……」(p.126)と思うなど、著者のセンスがあってはじめて面白さを増す写真も多い。
 そして、その写真とともに掲載されているツッコミ・補足情報・ウンチクがまた面白い。「ハンサムらーめん」(p.104)という看板から、ハンサムの死語化とハンサムな男性の消滅に思いを馳せ、今風のワイルドな男性を「では、なんと呼ぶか。もちろん『イケ麺』だ!」(p.105)とまとめる話など、うまくつながっていて好きだなあ。
 それから、本の形式で読んで改めて興味深かったのは、各回のタイトルのうまさ。ブログの時はどうしても本文に注目してしまったのだが、改めてタイトルをよく読むと内容にあったパロディになっている。
 実は半分くらいしか元ネタが分からないのですが、それでもすごさが分かりました。
 巻末のみうらじゅん氏との対談も含めて、時々ページをめくって眺めては、ニヤニヤしたくなる本です。
オンライン書店bk1の紹介ページオンライン書店ビーケーワン:吉村智樹の街がいさがし

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2003年9月25日(木) あまり関連のない2冊ですがあわせて紹介(の1冊)
吉村智樹『まぬけもの中毒』(1998年,鹿砦社) 古本
 まぬけな風景・レコード・お菓子・本を集め、それとともに吉村氏のコラムを収録し た本。著者はこうした路上観察やレコード・本の収集では有名なようで、『VOWやね ん』(宝島社)などの著作もある。俺が著者を知ったきっかけは、今年5月に行われ たイベント(北尾堂ナイト)でのトークライブへの飛び入りゲストとしてだったんだけ れどね。
 しかし、次々と出てくる変わった写真の数々を見続けていると、面白いのだが、 徐々に重たい気分になってしまった。世の中の暗い部分を覗き見ているような感じ がしてくる。それでいて、引き込まれるように読んでしまう。ちょっと危険な魅力のあ る本。
 また、コラムは珍宝館・秘法館探訪、企画物CDについて、それからエロネタが中 心。
 興味がある人は、まず立ち読みしてみて自分と波長があうか確認してみましょう。

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2007.01.25(木) グーグルの「不都合な真実」

オンライン書店ビーケーワン:グーグル八分とは何か・吉本敏洋『グーグル八分とは何か』(2007.1,九天社)

 タイトルになっている「グーグル八分(Google八分)」について、まずこの本から定義を引用します。「グーグル八分とは、村八分をもじった言葉です。あるウェブサイトがグーグルの検索結果から締め出され表示されない、またはページランクを落とされて、ほとんど見えなくなることをいいます」(p.8-9)。
 グーグル八分の具体例を挙げると、「http://www.google.co.jp/」で「info:http://www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/」と入力すると、次のような結果が表示される。

URL www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/に関する情報は見つかりませんでした。
(中略)
Google 宛に送られた法律に関するリクエストに応じて、検索結果のうち 1 件を削除しました。必要に応じて、ChillingEffects.org で削除が発生したことに至った苦情を確認できます。

 しかし、「http://www6.big.or.jp/~beyond/akutoku/」とURL欄に入力すると、きちんと「悪徳商法?マニアックス」というサイトが表示される。このURLが、グーグル八分に遭っているURLの実例。そして著者は、このURLをトップページとする「悪徳商法?マニアックス」の管理人。この本では、グーグル八分の実例紹介や、グーグル八分の問題点の考察がされている。

 まず紹介されているのは、グーグル八分にも大きく分けてふたつある、ということ。ひとつは、「グーグルによる自主的な削除」(p.47)。例えば、「スパムや検索エンジンを騙すサイト」(p.46)。これらのサイトはグーグル自らが検索エンジンとしての質を上げるために削除している。例えば、「グーグル八分とは何か」で検索したときに、『グーグル八分とは何か』という本についての情報が表示されるサイトよりも、全然関係ない広告ばかりのサイトが結果に多数表示されてしまっては、検索エンジンとしての意味を成さない。そうしたサイトを、グーグルが自主的に検索結果に表示できないようにしているという。
 もうひとつは、「第三者からの申請や法律に従って検索結果から削除する」(p.47)グーグル八分。この本で取り上げられるグーグル八分はこちらである(「狭義のグーグル八分」と表現されている)。そして、この狭義のグーグル八分の実例が、目次(下記で引用します)にあるように紹介されている。

 グーグル八分の実例の中で意外だったのは、東京都議会選挙の結果を表示したページもグーグル八分になっていること。それまでの実例に対し、「もしかすると『他人を批判しているのだから、グーグル八分にされても仕方ない』と思う方もいらっしゃるかもしれません」(p.176)という前置きの後に紹介されている。選挙結果という客観的なデータであっても、都合が悪いと思う人間は検索結果に表示できないように申請をし、グーグルはその申請を受けて検索結果に表示できないようにしてしまう。
 そして、表示されなくなったサイトが、誰の申請で表示されなくなったのかを確認できる可能性は低い。グーグルに送られたクレームを確認できるChillingEffects.orgというサイトはあるが、この本が出版された時点で「ほとんどすべての場合において、単に『通知は利用できません』と出るだけ」(p.38)であり、「日本語の申請が確認できるのはたった一件」(p.38)となっている。また、表示されなくなったサイトの管理者に訂正や弁明の機会も与えられない。著者がグーグルに対し、「『どこを修正すれば、再び検索結果に表示されるようになるのか?』などを質問したのですが、いっさい返事は来なくなりました」(p.23)という。これは恐ろしい。

 このようなグーグル八分が問題になるのは、検索エンジンが寡占状態であることが原因のひとつだろう。
 アメリカの調査会社「ウェブ・サイド・ストーリー」の2005年6月時点の調査では、検索エンジンのシェアは「グーグルが52.2%、ヤフーが25.2%、MSNが10.4%」(p.7)となっている。三社で87.8%なので、その他は12.2%。また「ニールセン・ネットレイティングス」の2006年10月の調査結果では、「グーグルが49.6%、ヤフーが23.9%、MSNが8.8%」(p.8)のシェアとなっている。計82.3%なので、その他は17.7%。いずれにせよ、検索の約半分にグーグルが使われているのである。
 この状況でグーグル八分が行われるというのは、視聴率50%のニュース番組で、意図的にあるニュースを流さないようなものである(うまい例えではないかもしれないけれど)。
 これに対して、グーグルに替わる検索エンジンが出てくればいいという意見があるとすれば、それは誤りだと著者はいう。「グーグル八分に対する批判は、現在の状況に対する批判です。実際に存在しない仮定の状況をもとに話をしても、意味がありません」(p.264)ということ。

 だから、今はとりあえず、グーグル八分というものが存在する、ということを知った上で、グーグルを使うことが必要だと思う。あとは、他の検索エンジン(ヤフーやMSNなど)も併用したり、色々な検索エンジンの結果をミックスして表示するサービスを利用したり、そもそも検索エンジンだけでなく、可能な場合は辞書や事典・書籍などでも調べることが必要だろう。
 ともかく。「グーグル八分」というものがあること、そしてどんなサイトがグーグル八分に遭っているかが分かることだけでも、この本を読む価値があるだろうと思う。

目次
第1章 グーグルの歴史とグーグル八分

  1. がんばれグーグル、お前がナンバーワンだ!
    グーグルの登場と躍進/グーグルが握る「生殺与奪」の権
  2. 「悪徳商法?マニアックス」のグーグル八分
    悪徳商法?マニアックスとは/ウェディング問題の勃発/ グーグルとのメールでグーグル八分が発覚/ウェディング問題その後
  3. グーグルが語る「グーグル八分」
    中国政府の検閲にも協力/そのときグーグルは動いた/グーグル八分の告知
  4. グーグル八分の種類
    グーグル八分の見分け方/全世界グーグル八分/グーグルは間違えない/ グーグル八分は、どこまでがグーグル八分か

第2章 グロービートジャパンに関するグーグル八分

  1. グロービートジャパンとは
    人気ラーメンチェーン「ラーメン花月」の運営会社/ ネットで有名なカルト宗教団体「日本平和神軍」とは/ 「イオンド大学」の学位商法/グロービートジャパンは平和神軍グループの一つ/ ネットで変わる企業と社会の関係/告発サイトを名誉毀損容疑で告訴
  2. なぜ裁判になったのか - 名誉毀損の現状
    グロービートジャパンと黒須英治氏の関係性/名誉毀損訴訟は現代の魔女裁判/ 名誉毀損とは/他にもある名誉毀損訴訟の問題点/日本初の刑事裁判/ 平和神軍の暴力性/検察は、平和神軍の表の顔に協力/ そして、グーグルも平和神軍に加担

第3章 様々なグーグル八分

  1. 大東建託に関するグーグル八分
    大東建託の実態を内部告発してグーグル八分/ 契約トラブルを公開したサイトもグーグル八分/告発サイトの歴史
  2. アラキ工務店に関するグーグル八分
    リフォーム工事の実態がグーグル八分に/ロングテールなんて、嘘っぱち
  3. 総資産五十億ドルの男のクビを取ったフリーライターもグーグル八分
    フリーライター「山岡俊介」/山岡さんのブログ中五つがグーグル八分
  4. 迷惑メール対策ページがグーグル八分
    「迷惑メール(スパム)撲滅私的調査会」の場合
  5. IT関係の出版社「アスキー」に関するグーグル八分
    アスキーの「毒男」騒動/「毒男祭り」関連スレがグーグル八分に
  6. ガルエージェンシー/探偵ファイルに関するグーグル八分
    設立者不明の探偵事業/探偵学校講師の犯罪行為/ 質問には答えず、質問状はグーグル八分
  7. 朝日新聞が行ったグーグル八分
    朝日新聞社への質問/著作権と表現の自由
  8. 東京都議会選挙に関するグーグル八分

第4章 グーグル八分と表現の自由

  1. 「表現の自由」の旗手、山口貴士弁護士に聞く「グーグル八分の問題点」
    表現の自由は民主主義の大前提/国家による検閲とグーグルによる検閲/ 営業の自由と社会的相当性/グーグルはコンプライアンス失格企業/ 問題は現実を見て考えるべき/お互いの主張の中で解決していく道が必要
  2. 「グーグルは圧力に対抗する気概を持て」図書館の歴史に学ぶ、規制との闘い方
    「恥の文化」の保存も図書館の使命/反省と批判によって自由は守られている/ 圧力や自主規制と闘うために

第5章 グーグルは何を目指すのか

  1. グーグルが決めるネットの秩序
    グーグルの守る秩序というもの/グーグルの発見した民主主義/ 独裁者は「いい人」の顔をしてやってくる/グーグル八分議論の必要性/ 本当は怖いグーグル八分/そして、誰もグーグルには逆らえない/ 最後に、パンドラの箱に残るもの

付録 グーグル八分に関するQ&A

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2010年01月03日(日):お金をきっかけに考える、人としてのまっとうな生き方

山田侑『会計士パパから娘への手紙〜わが子に残すお金より大切なこと〜』(税務経理協会)オンライン書店bk1Amazon.co.jp

 公認会計士である著者が、実際に娘に宛てて書いた手紙を元に書籍化したもの。ただし勘違いしてはいけないのは、この本は金儲けのテクニックを書いた本でもなければ、反対にお金を持つことを嫌う本でもないということ。
 この本で書かれているのは、「尊くすばらしい面と醜く恐ろしい面という、二つの矛盾する性格を持っている」(p.3)、「”お金”という生き物の性質を理解し、それとどう付き合っていくべきか」(pp.2-3)ということ。この点について、分かりやすい言葉で、丁寧に、ユーモアも交えながら書かれている。

 まず、この本で書かれているお金の持つ二つの側面について紹介しておく。ひとつは「物々交換に代わる手段として人間が考えた道具」(p.15)としてのお金。そしてもうひとつは、お金の「”ものさし”としての顔」(p.15)。もともとは道具(手段)であったお金は、「ものさしとしての顔を持ち、やがて一つの生き物として人間社会の中心的存在となり、やがては人間を支配し始めた」(p.16)。つまり、なにかを手に入れるための手段としてのお金、という役割を超えて、持っている金額の高低が人間や企業の価値を示すものとして独り歩きしてしまう。ここで著者が重要な点として挙げているのは、「何のためにお金をもうけるか」(p.18)。ということ。この考えがないと、「年収何百万円」、「売上高何億円」という数字だけを追い求めることになる。これがお金に支配されている状態なのである。この前提を元に、著者はお金に関する様々な場面について考え方を述べていく。具体的には、お金の貸借について、リスクを把握して生きることの重要性、などなど。

 こうした部分も興味深いのだが、やはり一番印象に残るのは、お金に支配される生き方をしてはいけないという著者の思い。最後の手紙で、著者が娘にお金についての手紙を(そしてこの本を)書くきっかけになる出来事について書かれている。それは電車の中で、同じ職場に勤めているらしい男女の会話を聞いたことだという。女性が男性に「三十万円しか要らないっていうお客さんに、しっかり五十万円貸しました」(p.203)と言ったと。このふたりが消費者金融に務めているらしいことも、会話から分かったという。これを聞いて著者は「その女の子は、お金という生き物によって作られたシステムに従って、与えられた役割をこなしているに過ぎない」(p.205)、けれどもそれだけに、お金が「巧妙に世の中に入り込み、普通に生活をしている人間を支配し、それだけに簡単には退治できないモンスターになっている」(p.205)ことを思った。そこで、昔の日本人なら当たり前のように言い切った「『人生で一番大切なものはお金である』と答えることは、恥なことである」(p.206)という考えを、敢えて口に出そうと考えたという。

 こうした本がなかなか出版の機会に恵まれず、逆に相変わらず金儲けの方法・テクニックを書いた本が刊行されているのは、多くの日本人がお金に支配された状態でいる方が、企業としては儲かるから、ということなのかもしれない。そのような状況の中で、この本を新装版として復刊した出版社を評価したいし、復刊をきっかけになるべく多くの人に読まれるようになって欲しいと思う。

 以下、その他に印象的だった点について、まとまりはないけれど載せておきます。

 大きなテーマとして、お金の貸借についての話がある。
 例えば、著者が商売人であった母から言われたという、「お金は友人に貸してはいけない。もしどうしても貸さなければいけない場合には、返ってこないものと思いなさい」(p.27)という言葉。ここには、お金を貸したことに対する相手からの感謝さえも期待してはいけないという。そうしないと、お金を貸した相手との人間関係には、なんらかの悪い影響が出てくる。
 だから逆に言えば、友人からお金を借りてはいけないし、もしも借りたとすれば絶対に、それも可能な限り早く返さなければならない。お金の貸借は、本来なら対等であるはずの友情に、「お金を貸した人とお金を借りた人という主従関係」(p.33)が生じてしまう。
 もう一つ、貸借に近い例として、借金の保証人の話がある。「どんなに親しい人から頼まれても絶対に保証人になってはいけない」(p.39)。なぜなら、「保証人とは、成功してもなんの見返りがなく、失敗した時のリスクだけを負わされる割に合わないもの」(p.39)だから。つまり、友人の保証人になったとして、その友人が借金を返済できなければ、保証人である自分が返済しなければならない。そして、その友人が成功してお金を得ても、保証人にはまったくお金が入らないのである。
 では、どうしても保証人にならなければならない状況になったらどうするか。その時は、「帰ってこないつもりで自分の持っているお金を貸す」(p.40)のである。それが自分にとってのリスクを最低限にし、自分を守る方法である。

 今「リスク」という言葉を使ったが、この本での大きなテーマのもうひとつに、(主に金銭的な)リスクを把握して生きることの重要性が書かれている。
 例えば、どうしても借金をする必要が生じる程に生活に困った場合。著者は「決して消費者金融を利用してはいけません」(p.53)という。そして「質屋を利用することを考えてください」(p.56)とも。その理由は、「リスク」にある。消費者金融は、借りたお金を返せずにいると、返すべき金額がどんどん増えていく。詳しい計算は本を読んでもらうとして、利息の年率二十九パーセントで百万円を借りた場合、一年間まったく返済をしないと、返済すべき額は百三十二万六千六百七十円になるのである。それに対して質屋では、自分の持っている物品を担保(質草)として預け、お金を借りることになる。そして、期日までにお金が返せなければ、質草は返って来ずに売却されてしまう。しかし、そこで終わる。借りたお金の返済義務も、利息もない。
 また、投資をする場合にも、リスクとリターンを考える必要がある。そこで重要なのは、リスクとリターンがあらかじめ計算できるかどうか。これは、「ハイリスク・ハイリターン」なのか「ローリスク・ローリターン」なのかということとはあまり関連しない。「ハイリスク・ハイリターン」であっても、最悪のリスクが計算できれば、投資としては計算できる。例えば株式投資は、株価が数倍になることも、まったく無価値になることもある。ハイリスク・ハイリターンである。しかしそれでも、投資額以上のリスクを追うことはない。株を10万円分買った場合、その10万円の株の価値が0円になることはあっても、それ以上お金を取られることはないのである。
 しかし、もしも「リスクが計算できない、あるいは、リスクが見えない」(p.122)のであれば、その投資は絶対にすべきではない。なぜなら、投資した額が戻ってこないことに加えて、「無制限に追加の投資やその他の責務が君に振りかかってくるかも」(p.123)しれないから。
 リスクの把握は、保険について考える際にも必要になる。社会に出るにあたっては、「最悪の事態を想定し、かつその最悪の状況を君が我慢できるレベルまでにしておく必要がある」(p.164)。保険は、そのために検討すべきなのである。

 この本の中には、ロバート・キヨサキ『金持ち父さん 貧乏父さん −アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学−』への憤り、問題点の指摘が、何度も登場する。たしかに著者の主張を読むと、ロバート・キヨサキの考え方を信じた人は不幸になっているのではないかと思う。「投資用不動産を借金してでも安く買って高く売ることと、未上場の株式を安く買って上場後に高く売る」(p.7)という投資の方法で、ここ数年の世界的不況を乗り切れたとは思えない。
 また、ロバート・キヨサキは、金が必要になったときに寄付をすることを薦めているが、一方でお金儲けの方法を学ぶために合法的なマルチ商法を行っている会社で仕事をすることも薦めているという。「合法的なマルチ商法」が存在するとは考えられない(それは合法ではなく脱法ではなかろうか)。そうして手にした金を寄付しても、「不当な手段での金儲けの後ろめたさを消すための免罪符」(p.182)ではないかという著者の主張の方に、私は賛同する。著者だけではなく、かの勝海舟も金はどうやって手にしたかが重要だと言っていた。「苦労して貯めた金は三年五年と持つものだ」(p.74)という言葉も残したらしい。

 人生で一番大切なのはお金ではないという意見に対し、「それでは、人生で一番大切なものは何?」(p.206)という問いがあるかもしれないと、著者は言う。それに対する著者の答えは、「それがお金でないことは断言できますが、それが何かは言えません。しかし、あえて言うならば、それが何かを探す旅が人生なのかもしれません」(p.206)。「人生で一番大切なのはお金」と言って思考停止してしまうのではなく、著者のいうように考えて生きることが、生きることの大変さであり、面白さなのではないかと思う。

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2010年01月10日(日) 地元にサッカーチームがある、ということ

吉崎 エイジーニョ『オトン、サッカー場へ行こう!』(2009・新潮社):オンライン書店bk1amazon.co.jp

 サッカーを中心に仕事をしているライターの著者が、父親とのサッカー観戦を書いたノンフィ
クション。といっても、観戦するのはJリーグ(J1・J2)の下に位置する、全国規模のアマチュアリーグJFL。いったいなぜか。
 それは当時(2008年)、著者の故郷であり、両親が今も暮らす北九州市のチーム「ニューウェーブ北九州」がJリーグ昇格を目指して戦っていたから。そう、これは、定年退職後の生活に地元のサッカークラブがどのような影響を与えるか、「日本高齢化社会とフットボール」(p.22)というテーマを、自らの父親を通して考えるドキュメンタリーなのであった。

 とはいえ、内容はそんなに堅苦しくはない。定年後、なんとなく元気がなさそうだが、頑固なところは変わらない父。東京で忙しく暮らし、両親に心配をかけているという思いも心配している思いも持ちながら、面と向かうと素直になれずに喧嘩をしてしまう息子(エイジーニョ)。そんな二人が、月一回のペースで、主にホームゲームの行われるスタジアムに足を運ぶ。

 意外だったのは、お父さんの熱中ぶり。最初の観戦では興味は試合よりも会場で売っていた弁当だったのが、徐々に選手の名前と顔を覚え、若いサポーターたちに溶け込み、ゴール裏でコールに加わるようにまでなる。これは、JFLという、Jリーグと比較して色々な面がアットホームな環境が影響しているのだろう。練習を見学後に選手からサインをもらった経験は、お父さんにとってチームへの愛情を抱く大きなきっかけになったようだ。そして、サポーターが父子を快く受け入れたのも、サポーター個々の人柄やエイジーニョさんのサポーター間での知名度、といった理由もあるだろうが、まだ多いとはいえない人数でクラブとも一丸になってJリーグを目指そうという雰囲気も理由に挙げられるだろう。例えば、応援するクラブが隣の福岡市を本拠地とするアビスパだったらと想像すると、単純に規模(スタジアムの大きさ、サポーターの多さ)の問題として、入りにくかったのではないかと想像できる。

 あとがきを読むと、お父さんはそのまま熱狂的サポーターとなったわけでもなく、自由な感じでクラブの応援を楽しんでいる模様。ニューウェーブ北九州がいよいよJ2に昇格し、ギラヴァンツ北九州と名称を変えて参戦する2010年、エイジーニョ父子はどのようにクラブと付き合って行くのか、続きを読んでみたい気持ちになる。

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