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木の葉燃朗のばちあたり読書録


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■著者別「て」
フィリップ・K・ディック:著・浅倉 久志:訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』 / フィリップ K.ディック 『最後から二番目の真実』 / フィリップ・K・ディック:著・友枝康子:訳『流れよわが涙、と警官は言った』 / ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア『故郷から10000光年』 / ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(浅倉久志:訳)『たったひとつの冴えたやりかた』 / 出久根達郎『朝茶と一冊』 / 出久根達郎『本のお口よごしですが』 / 手塚治虫『明日を切り拓く手塚治虫の言葉201』 / 手塚眞『天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫』 / 手塚眞『ヴィジュアル時代の発想法−直感をいかす技術』 / 寺田寅彦『柿の種』

本に貼られているリンク先は、特に記載がない場合オンライン書店ビーケーワン の紹介ページです


2007-07-30(月) アイデンティティが揺らぐことの「不気味な気持ちよさ」

アンドロイドは電気羊の夢を見るか?フィリップ・K・ディック:著・浅倉 久志:訳『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』(1977年、ハヤカワ文庫SF) Amazon.co.jpbk1楽天ブックス

 ディックの小説を読むのは、『高い城の男』・『最後から二番目の真実』に続き三冊目。読んでいて感じるのは、ディックの小説は、小説の設定と物語の進む過程の面白さが魅力だということ。逆に、ラストのどんでん返しなどはあまり期待しない方がよいようです。それがいい悪いではなく、ディックの小説はそういうものとして読むべきなのだろうと思う。

 この小説も、やはり物語の設定と過程が面白い。舞台は地球。しかし、多くの人は他の惑星に移住し、残っているのは信念を持って移住を拒否する者か、移住に適さないと判定された者(「特殊者」・「ピンボケ」と呼ばれる)。そして地球には、人間そっくりのアンドロイドが生息し、人間のアイデンティティを守る(アンドロイドと人間を区別する)ためにアンドロイドを狩るバウンティ・ハンターが職業として存在する。

 主人公はバウンティ・ハンターのリック・デッカード。彼がアンドロイド狩りをしていく様子は、ハードボイルドのような雰囲気を持っている。一方で、「共感ボックス」という装置を握ることで、同じ行為をしている人、そして教祖のウィルバー・マーサーとの一体感を感じるマーサー教や、それと対立するテレビ・ショウ、更にはホバー・カーやレーザー銃などの道具立てには、SFらしさを感じさせる。

 しかしこの小説が一番面白かったのは、アイデンティティがゆらぐ様子だった。デッカードは(「人間が」と言い換えてもいい)アンドロイド狩りの中で、アンドロイドと人間との区別がつかなくなっていく。そのきっかけは、彼が狙ったアンドロイドが人間ではないかという疑いにより、警察に連行される場面。その後、デッカードはアンドロイドにも人間と同じような感情を抱いてしまう。一方、そうした葛藤もなく、冷静にアンドロイドを破壊していくバウンティ・ハンター、フィル・レッシュも現われ、デッカードはますます混乱する。
 このあたり、読んでいる方も、誰が本当に人間で、本当にアンドロイドなのか、疑心暗鬼になってくる。レッシュはアンドロイドかもしれないし、アンドロイドに愛情を感じるデッカードこそアンドロイドかもしれない。また、彼らの狩ったアンドロイドは果たして本当にアンドロイドなのかも分からなくなってくる。この、登場人物のアイデンティティのゆらぎが、「不気味なのだが気持ちいい」という気持ちになる。くらくらすることの気持ちよさというか。
 その中で、人間とアンドロイドを分けるポイントが、本物の動物を飼いたいと思うかどうか、とされているのも、意外なのだが、それだけに説得力がある。

 私はこの小説を映画化した『ブレードランナー』(1982年アメリカ、リドリー・スコット監督)は見ていないのですが、小説単体でも十分面白かったです。

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2007-07-06(金) 読んでいて飽きない。まとまりきらないラストも許せる。
最後から二番目の真実フィリップ K.ディック (著), 佐藤 龍雄 (翻訳) 『最後から二番目の真実』 (創元SF文庫)  bk1Amazon.co.jp

 舞台となるのは、21世紀の地球。地上では、二大勢力による戦争が行われている。戦争に携わる一部の人間を除いて、人々は汚染された地上から地下に逃げ、戦争用のロボットを生産している。地上の様子を知ることができるのは、テレビの情報のみ。戦争が終わる気配はない。
 というのは全部嘘だった! 実は既に戦争は終結しており、地上では特権的な人間が、地下で作られたロボットを使って生活していたのであった。当然地下で放送されるテレビも、地上の人間が作る偽の映像だった。演説をする最高責任者は人形であり、その言葉は専門の担当者がシナリオを書いている。

 というのがこの小説の前提となる舞台設定。これを面白そうと思えるかどうかが、この小説を楽しめるかどうかの最も大きなポイント。

 物語は、とある理由で地上を目指すことになる、地下世界の一責任者ニコラス・セントジェームスと、地上世界で対立するスタントン・ブロウズとルイス・ラシンブル、そしてブロウズの部下たち、という地下・地上の二つの場面が平行して描かれる。
 やがて地上世界に主要な登場人物が集まり、その中でいくつかの秘密が分かり、地上世界の対立の解決に向けて動き出し、という感じで話が進んでいく。

 しかし、ラストに上手くまとまるような話ではない。途中で、残りのページ数とそこまでに起きた出来事を考えて、「これはまとまらないだろうなあ」とうっすら思うのだが、その予想通りにまとまらない。でも、たとえラストがまとまっていなくても、そこにいたる物語の過程を読むだけでも充分面白い。例えば、権力者が情報操作によって民衆を騙すのは、はるか昔(少なくとも第二次世界大戦の頃)から変わらないし、民衆もそれに気づかない、という現実世界への問題提起。ここでは、実在した歴史上の人物にフィクションの設定を持たせて描いている。その結果、起こった出来事は現実とそれほど変わらないが、それに関わった人物の印象がまったく異なる。
 それから、いかにもSF小説らしい道具や設定も随所に登場する。具体的に書くとネタバレになりそうなので控えておきますが、こうした道具立てにもわくわくする。

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2007-11-01(木) 自分が自分であることを証明できない恐ろしさ

 border=0フィリップ・K・ディック:著・友枝康子:訳『流れよわが涙、と警官は言った』(1989年、ハヤカワ文庫SF)オンライン書店bk1楽天ブックスAmazon.co.jp

 フィリップ・K・ディックの小説を数冊読んできて、次にどれを読もうかと思っていた。そこで、この題名(原題"Flow My Tears,the Policeman Said"の直訳ですが、すごく好き)と、有名タレントがある日突然世界中のすべての人から忘れられていた、というあらすじに惹かれて、この本を読むことにした。

 不条理な発端、読みながら、ふと現実に戻って考えさせられる台詞、まとまりきらないラスト(これもまた魅力)、と、私の考える「フィリップ・K・ディックらしさ」が強く感じられて、たまらなく好きです。
 とにかく、有名な歌手でありテレビタレントであるジェイスン・タヴァナーが、ある日目覚めると世界中から忘れられていた、という設定が物語として魅力的。しかも舞台になるのは、まともな人間ならデータに登録され、身分証明書を何枚も持っているような管理された社会。しかしタヴァナーは目覚めたときには身分を証明するものを持っておらず、彼の存在に関するデータもない。彼を知っている人間もいない。その中でどうやって自分が自分であることを証明していくのか。この絶望的な状況でもがくタヴァナーの様子が、先へ先へと読み進めたくなる。

 そうして、タヴァナーが様々な人物との出会いと別れを繰り返し、最後に彼の存在が消えていた理由も明らかになる過程は、これまで読んだディックの小説の中でも比較的破綻が少なくて、まとまっていた。それでいて結構意外性のある内容で、どんでん返しという意味でも、結構満足できる読後感。

 そして最後に残るのは、自分が自分であることを証明できない恐ろしさ。そして月並みだけれど、そういうときに大切なのは自分を知っていてくれる他人なのだと感じた。

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2008-07-04(土) J.ティプトリー・ジュニアの引き出しの多さと奥深さよ

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(伊藤典夫:訳)『故郷から10000光年』(ハヤカワ文庫SF) オンライン書店bk1楽天ブックスAmazon.co.jp

 J.ティプトリー・ジュニアの第一作品集。これまでも何冊か短編集を読んでいるのだが、それらの収録作とはやや雰囲気が違うことを感じた。
 収録作の多くにに共通して感じたのは、「宇宙」と「性別」。最初の「そして目覚めると、わたしはこの肌寒い丘にいた」と、その次の「雪はとけた、雪は消えた」には、このテーマを感じる。「マザー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」もそうだね。

 しかし、それに止まらない幅の広さがある。例えば、ティプトリーの作品としては珍しく感じたタイム・トリップものの「ハドソン・ベイ毛布よ永遠に」。しかも、そのトリップのルールに意外性があり、これがラストシーンにうまくつながる。他にも、服の中に女の子を住まわせ、ドアと会話し、タンスと戦って町の中からコインを借りる、不思議な男の登場するシュールな物語「ドアたちがあいさつする男」も、私の持っていたティプトリーのイメージとはずいぶん違っていた。

 もうひとつ。ティプトリーの小説は、「やや難解。しかし面白い」ものが多いという印象を持っていた。しかし、この本の中には、もっと純粋にエンタテインメントとして楽しめる短編もある。吾妻ひでお先生のマンガのような、シュールでポップでサイケデリックな宇宙旅行を描いた「苦痛志向」、それぞれ、各惑星の動物がスピードを競うレース場と、他惑星への物品輸送のチェックを行うセンターを舞台に、異文化のぶつかり合いとユーモラスでスピーディに描いた「われなりに、テラよ、奉じるはきみだけ」と「セールスマンの誕生」なども、これまで抱いていたイメージとはずいぶんと異なる。

 しかし、これらの作品の中にも、ティプトリーらしいシリアスさは見えるし、地球の中での人種、文明、文化のギャップを、地球人と宇宙人のそれに置き換えた「愛しのママよ帰れ」、「ピューパはなんでも知っている」、「スイミング・プールが干上がるころ待ってるぜ」などは、SF小説らしい小説。

 こうしてみると、後のティプトリーの作品にも見える特徴から、初期の作品独特の特徴まで、J.ティプトリー・ジュニアという作家の持つ引き出しの多さと奥深さを感じさせてくれる短編集だった。
 全15編、文庫本で450ページ強のボリュームなので、じっくり読めて堪能できました。

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2008-03-13(木) 決断する先駆者たちの物語

ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア(浅倉久志:訳)『たったひとつの冴えたやりかた』 (ハヤカワ文庫SF)
Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 「たったひとつの冴えたやりかた」・「グッドナイト、スイートハーツ」・「衝突」の三編を収録。この三編が、図書館の司書が学生に紹介する物語として紹介される。

 「たったひとつの冴えたやりかた」は、16歳の少女コーティー・キャスが、誕生日にプレゼントされた宇宙船で旅に出て、不思議な出会いを経験する。
 「グッドナイト、スイートハーツ」は、宇宙船の救助・回収で生計を立てるレイブンが巻き込まれるトラブルと、そこで果たす再会の物語。
 「衝突」は、ヒューマンとジーロという、言葉も外見も異なる二つの種族のファースト・コンタクトを双方の側から描く。

 いずれも、最初はなんとなくティプトリーっぽくないと思うのだが、読み進めるとティプトリーらしい緊張感に満ちてくる。
 三編に共通するテーマは、「決断する先駆者たちの物語」だろう。登場人物は、宇宙においてこれまで経験したことのない出来事に出会い、どの方法が正しいかが分からない状況で、それでもいちかばちかの決断をして行動する。それが「たったひとつの冴えたやりかた」だと信じて。その決断が生む結果はそれぞれ。しかし、自ら運命を選び取ったという点で、いずれの登場人物にも非常に魅力を感じる。

 もうひとつ。作中の出来事は、物語を読む我々にとっては、未来の出来事である。しかし作中では、過去にあった出来事として紹介されている。そのため、いずれの物語にも懐かしさを感じる。「懐かしい未来」という、不思議な感覚。SFはテクノロジーとノスタルジーを同時に描くことができるのだと思った。

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2003年4月16日(水) またもや、読書にいざなう2冊(の1冊)

朝茶と一冊 (文春文庫) 出久根達郎『朝茶と一冊』(2000年,文春文庫)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 書評集、というよりも、読書エッセイという呼び方があっていると思う。本の話だけでなくて、その本とは一見関係なさそうなエピソードもエッセイの中に色々と登場する。しかし、それらのエピソードが最後でちゃんと紹介する本に関係してくる。その上、それらのエピソードが面白い。
 著者の出久根氏は作家であり古書店主であるので、氏の思い出話は自然に古本屋としての仕事に関する話になってくる。この思い出の数々もまた楽しい。
 特に印象に残ったのが、カバヤ児童文庫の話。カバヤのキャラメルのおまけカードを集めると、ハードカバーの本がもらえるのだ。このカバヤ文庫について、カバヤのページで丁寧なリストが作成されつつある。世界の名作文学から、エドガー・アラン・ポー、ジュール・ヴェルヌ、コナン・ドイルの作品、『平家物語』や『里見八犬伝』など、抄録であろうがなかなか豪華だ。
 その他にも幅広いジャンルの本が紹介されている。なにせ『幸田文全集』から『VOW』(宝島社)まで紹介されているのだから。氏の懐の深さが解ろうというものだ。

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2003年11月13日(木) 本好きの本屋さんが書いた本にまつわる本2冊(の1 冊)

本のお口よごしですが (講談社文庫) 出久根達郎『本のお口よごしですが』(1994年,講談社文庫)オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス

 作家であり古本屋の店主でもある(現在も営業中かは未確認)著者が、自分の読んだ本、店で出会った人々、本にまつわる色々な思い出話などを書いた本。
 本好きに共通した思いとでもいうような雰囲気が文章からにじみ出している。そして、エピソードの語り方も作家らしく、中には短編小説のような話もいくつかある。かつてデパートの古書展で、階段を駆け上がって誰よりもはやく会場にたどり着く男性の話(この人は、ある古書展の会場で心不全で亡くなったらしい)。本を貸すとなかなか戻ってこないのはなぜか、という難問の考察。架空の本を並べた本棚の話。などなど。
 それから、本とは関係のないエピソードもふんだんに語られていて、これもまた興味深い。例えば、かつて小学校では、母の日にカーネーションを子どもの胸につけさせていたそうだ。しかも、母親の有無で花の色を変えたらしい。なぜこんなことをしていたのかと思う。これは初めて知った。他にも、戦後まもなく衣服と食料を交換して生活することを、服を脱ぐことをタケノコの皮をむくことに見立てて、「タケノコ生活」と呼んだ。これは知っていたが、「タマネギ生活」とも呼んだらしい。なぜなら一皮むくたびに涙が出るから。こんなささいな話も、印象に残った。
 ということで、内容は充分堪能したのだが、ひとつ気になることが。本の扉のページに、「出久根達郎」という署名があるのだ。ううむ、本物だろうか。

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2006.03.01(火) 手塚治虫先生の人間臭さと、それゆえの魅力を感じる本

明日を切り拓く手塚治虫の言葉201―今を生きる人たちへ 手塚治虫『明日を切り拓く手塚治虫の言葉201』(2005.10,ぴあ)オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス
 手塚先生の残した言葉を抜粋して、まとめた本。
 印象に残る言葉が、たくさん出てくる。例えばこのような言葉。
「こっちが努力しがいのある/時期に来たって思ったら/もう、すぐイチ早くやるのが/ぼくの主義なんですよ」(p.130)
 これ、亡くなる前年の講演での言葉とのこと。勇気付けられるなあ。俺もぐずぐずしていられないという気になる。「井の中の蛙を決め込んでいるのは敗北だと思う」(p.22)にも、同じ気持ちになる。
 もうひとつ、言葉の中から思うのは、多分手塚先生は、漫画の神様になりたかったのではなく、誰にも負けない漫画家になりたかったのだろうということ。神様になってしまうと、漫画家の競争からは除外されてしまう。それは嫌だったのではないかと感じる。
 例えば「ぼくは読者の人気投票に怯えてるんです」(p.60)とか、ライバルと言われていた福井英一氏(『イガグリくん』・『赤胴鈴之助』)の急逝の際の「〜ああ、ホッとした〜/なんという情けない俺だろう」(p.63)など、非常に人間らしい。
 そして、「最後まで努力をするってのが/本当の生き甲斐ではないでしょうか」(p.188)と、亡くなる前年にも語り、生涯現役という印象を残されたわけです。
 他にもたくさんの言葉があり、しばらくは時々ページをめくっては言葉を読みたいと思います。

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2003年6月24日(火) 偉大な祖先の偉大な子孫によるこの1冊(その2)

天才の息子―ベレー帽をとった手塚治虫 手塚眞『天才の息子 ベレー帽をとった手塚治虫』(2003年,ソニーマガジンズ)オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス

 なんともストレートなタイトルだ。内容もタイトルに違わず、手塚治虫氏への賞賛にあふれている。治虫氏は毀誉褒貶の激しい人であったと思うが、身内(眞氏は治虫氏の長男である)から見てここまでよいところばかりが目立つというのは意外だった。これは、決して眞氏がお世辞を言っているという意味ではなく、治虫氏と家族の間には、外からはわからない信頼というかつながりがあるのだなあと思ったのである。
 この本では、手塚治虫について語りながら、眞氏が治虫氏から受けた影響、ふたりの似ている部分などを語る。眞氏は治虫氏の熱烈なファンだということを強く感じるが、身内としてはわりと醒めた視点で見ていると思う部分もちらほらとある。治虫氏を、自分と同じ「ものをつくる人間」として分析しているようなところがあるのだろうか。
 しかし、手塚治虫という人は、決して神様ではなかったんだなあ。とても人間らしい天才だったと思う。なんでもかんでも自分がやろうとした人で、とにかく負けず嫌い。若い漫画家・新しい才能には次々と嫉妬し、自分も新しい漫画を書き続けていく。こういう人だから、生涯現役を続けられたのかと思う。とにかく、治虫氏はすごいバイタリティの持ち主である。多分、体力さえ続けば、もっとすごい仕事がたくさんできたのではないかと思う。アイデアを生み出す頭脳は、最後まで衰えなかったようだしなあ。
 はじめは、眞氏の治虫氏への賛歌にちょっと抵抗があったが、読み終えてみると、「実の息子さんがここまで言うのもわかる」と思わされる。手塚氏の魅力を改めて感じさせてくれる本。

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2004年1月23日(金) なんとも紹介が難しい1冊

ヴィジュアル時代の発想法―直感をいかす技術 手塚眞『ヴィジュアル時代の発想法−直感をいかす技術』(2000年、集英社新書)オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス

 ううん、まず結論を言うと、俺にはこの本の内容はちょっと合わなかった。あまりにあやしげな感じがする。著者はヴィジュアリスト(これは氏の造語で、総合的な映像作家のような意味だと思う)だが、映像についての発想だけではない。幅広い話ではある。しかし、あまり普遍的でない気がするなあ。
 内容は、下記の6章からなる。
  第一章…情報は整理してはダメ
  第二章…偶然の力
  第三章…アイデア発想法
  第四章…イメージ発想のテクニック
  第五章…クリエイティブとはどのようなことか
  第六章…映画の発想と情報の未来
 三〜五章の中に、部分的に参考になる話がある。「作り直す(Recycle)、置き換える(Replace)、くっつける(Paste)、偶然を生かす(Chance Operation)」(p.88)という発想法とか、物語をつくるときの「マルチ・ストーリー」(p.174)という考え方などは、自分が物事を考えるときにも使えると思った。
 しかし、他の部分は読んでいて面食らうような部分が多かった。「超能力者の清田さん」(p.178。おそらく「超能力者」清田益章氏であろう)の能力を完全に肯定していたり(超能力があることを前提に話を進めている)、第二章で偶然の一致や正夢について、「そうしたことが起こる原因はともかく、結果に意味を感じ、それを仕事や生活にどう反映させるかが大事だと思っています」(p.54)という書き方をしていたり、どうもうまく説明できない部分は説明を避けているように読める。こういう文章を書かれると、どうにも信用しようという思いがわいてこない。
 この本に書いてあることを信じ込んでしまうのは危険だと思います。

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2006年10月9日(月) じっくり読める随筆集

柿の種 寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫)オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス

 寺田寅彦の随筆集です。寺田寅彦(1878-1935)は、物理学者であり随筆家・俳人でもあった。この本については、「自序」に「なるべく心の忙しくない、ゆっくりした余裕のある時に、一節ずつ間をおいて読んでもらいたい」(p.7)と読者への願いを書いている。

 読んでまず感じたのは、科学者らしい観察眼と、それを興味深く読ませる文章の上手さ。
 それは例えば、「眼は、いつでも思った時にすぐ閉じることができるようになっている。/しかし、耳のほうは、自分では自分を閉じることができないようにできている。/なぜだろう」(p.28)という、わずか三行の文章。これは、はたと考えると、ずっと考えてしまいそうな問題だ。
 他にも、第一次世界大戦後に発動機を使った飛行機の製作を禁止されたドイツが、グライダーを発明したことを受けて「詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれる」(p.56)というのも、面白い。
 また、「映画劇場の入場料を五十銭均一にしたら急に入場者が増加して結局総収入が増すことになった」(p.188)とか、小学校では「震災火災風災に対する科学的知識とか、細かいところではたとえば揮発油取り扱いの注意とか、誤って頭を打撲した時の手当てとかいうものは万人必要の知識であるが自分の知り限り少なくとも十分は取り扱われていない」(p.216)などという部分は、今の世の中を考える時にも参考になると思う。

 一方で、ユーモアというか皮肉というか、冗談とも本気ともつかないような面白い話もある。
 例えば、学校ごとに生徒の顔に共通するものがあるという話から、「ある学科関係の学者の集合では、かなり年寄りも多いのに一人も禿頭がいない。/また別の学会へ行くと若い人まで禿頭が多い」(p.157)とつながる話などは、なんだか無暗に面白い。
 それから、電車から見える選挙の立候補者の看板と「『よせ鍋はま鍋』『蒲焼三十銭』『○○第特売大安売り』」(p.222)という看板の共通点を「どちらも『売り物』である。そうしてどちらにも用心しないと喰わせ物があるかもしれない」(p.222)などという話も、好きだなあ。

 それから、これらの文章が書かれた大正の終わりから昭和の始めには、今の私たちも実感を伴って知っている物事がある。そうした物事が登場すると、なんとなく寺田寅彦への親しみを強く感じる。
 それは例えば新宿の武蔵野館で映画を見て、三越の前を通ったり(p.134)、エノケン(榎本健一)の映画を見たり(p.178)、渋谷の八公(ハチ公)が死んだことを話題にしたり(p.231)ということである。漱石に師事した寺田寅彦が、こうした経験をしているというのは、なんだか不思議だ。

 ちょっとずつじっくり読んだけれど、面白かったです。

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