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木の葉燃朗のばちあたり読書録

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■著者別「う」

コロナ・ブックス編集部:編『植草甚一スタイル』 / 植草甚一『小説は電車で読もう』 / 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』 / 歌野晶午『館という名の楽園で』 / 宇田川 悟『VANストーリーズ』 / 内田 百間『内田百間集成 14 居候匆々』 / 内田 百間『東京日記』 / 内田百間(門に耳)『百鬼園随筆』 / 宇都宮 徹壱『股旅フットボール―地域リーグから見たJリーグ「百年構想」の光と影』 / 梅棹忠夫『知的生産の技術』 / 梅棹忠夫『私の知的生産の技術』 / 植木等『夢を食いつづけた男―おやじ徹誠一代記』

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2006.2.16(木) 植草甚一氏の魅力を改めて考える

植草甚一スタイル (コロナ・ブックス (118)) コロナ・ブックス編集部:編『植草甚一スタイル』(2005年,平凡社)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 植草甚一氏について、色々な角度から紹介した本。
 植草氏の文章はほとんど載っていないが、氏の写真や、コレクションの写真が多く掲載されていて面白い。
 コレクションした切手やアクセサリーからも植草氏の趣味がよく分かる。また、氏のスクラップブック・日記・コラージュ作品・手紙なども一部写真を見ることができて、日記などはすごく植草氏らしさを感じる。
 それから、写真の中で意外だったのは、植草氏といえばやせているイメージがあるが、実は昔は結構太めだったということ。この本によると「六三歳の時、胃の手術をしてから見違えるような細身のおじさんに大変身した」(p.12)そうだ。たしかに、太っていた頃の写真ではひげも口ひげだけで、別の人のようだ。

 植草氏についての文章の中でまず興味深かったのは、ニックネーム「JJ」の由来が書かれていましたこと。植草氏といえば通称「JJ」。これまで、特に考えたこともないくらい自然にそう呼んでいました。
 でも、改めて考えると、どうして「JJ」なのか、というのは謎だった。
 初めて植草氏を知ったころ、勝手に想像したのはこんな説。
 「Jinichi Uekusa」でイニシャルが「J.U.」。でも、イニシャルを書くとき「J.J.」と読めるように書いていた。それで、「J.J.」と呼ばれるようになった。
 もちろんこれは俺の勝手な想像で、本当の由来は下記の通り。
「もともとは一九四〇年代末、映画中毒者を意味する『シネマディクト』と甚一の『J』を組み合わせ、自らの分身『シネマディクトJ』が登場する三人称スタイルの評論を『映画芸術』に発表した。単行本収録の際、語呂がいいとしてJ・Jと改められ、次第に本人を指す呼び方としてJ・Jが使われるようになった」(p.12)
 なるほどねえ、「シネマディクトJ」が由来だったのかあ。

 また、川本三郎、田中小実昌、片岡義男などの諸氏による、植草氏についての文章も掲載されている。中でも面白かったのが、川本三郎「ショウウィンドウの中の東京」(pp.50-55)。植草甚一の街歩きは、目的も場所も限られているという。「ただ、買い物をするためにだけ町を歩く」(p.50)のであり、買うものも「古本、レコード、雑貨、文房具」(p.51)などに限られる。行く場所も、「ほとんど、銀座、渋谷、新宿の盛り場に限られている」(p.50)。
 これは、今まであまり考えたことがなかったが、たしかにその通りだ。
 そして「植草甚一は活字のなかでこそ散歩をしていた人ではないのか」(p.53)という仮設を挙げている。

 いろいろなことが分かって、また、植草氏の本を色々と読みたくなる。

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2007-09-19(水)「さらば愛しき中間小説よ」という感じだったのかな

小説は電車で読もう (植草甚一スクラップ・ブック) 植草甚一『小説は電車で読もう』(2005年、晶文社 、植草甚一スクラップ・ブック新装版)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 元々は、1971年9月から1973年12月まで、『東京新聞』に毎月連載された中間小説の文芸時評。中間小説って、今はあまり使わない言葉かもしれない。純文学と大衆文学の中間に位置する小説を言いいます。この本では、毎月発行される『オール読物』、『小説新潮』、『小説現代』、『小説サンデー毎日』、『問題小説』、『小説宝石』などなどの中間小説誌を読み、印象に残った小説を紹介し、あわせて中間小説の単行本や、海外文学・映画などの話題にも触れている。
 植草さんが好んで取り上げているのは、時代小説や推理小説(これにはサスペンスも含まれる)、あとは当時の世相風俗をテーマにした小説など。

 一番印象的だったのは、植草氏自身も書いているし、解説の筒井康隆氏も指摘しているのだが、取り上げている作家がほとんど固定されてくること。そして、紹介されている作家は現在でもある程度読まれている作家だということ。例えば、池波正太郎・山田風太郎・井上ひさし・吉村昭、などなど。これは、植草氏の評価の確かさとともに、目を惹く新しい書き手がいなかったことが中間小説自体の衰退を招いたのではないかということを感じさせる。

 そして最終回、次のような文章で連載が締めくくられる。
「気に入った中間小説が毎月十編か十五編あると、その作家たちがきまっておんなじ顔ぶれになってきた。だから書くこともなくなってくる。またもや困ってしまい机に向かったままあたりを見回していると、書棚にある外国の大衆小説が目につく。読みたいから買ったのにそのまま手にしないでいた」(pp.226-227)。「これから一年間できるだけ外国の大衆小説をたくさん読みたくなってくる」(p.227)。
 こうして、植草さんは再び外国文学へと読書の中心を戻して行ったようだ。

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2004.5.4(火) うひい、だまされた(ほめ言葉として)

葉桜の季節に君を想うということ (本格ミステリ・マスターズ) 歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』(2003年,文藝春秋)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 推理小説なのだが、この本は2003年に様々な賞で輝かしい成績を誇っているのだ。
・2004年度版「このミステリーがすごい!」第一位
・2004「本格ミステリ・ベスト10」一位
・2003「週刊文春ミステリーベスト10」二位
 これもうなづける内容の小説。細かいことを書くと、タネ明かしになってしまうのだが、とにかく、とても大きなどんでん返しが最後に待っている。
 そして、その部分を読んでから思い返すと、「ああ、あれもこれもそれも、こういう意味があったのか」と改めて感心する。非常に細かな部分まで気を遣って書かれていることがわかる。あらゆる部分で、読者をだまそうという工夫を凝らしている。俺は見事にだまされました。
 これだけでは漠然としているので、もう少し書こう。「なんでもやってやろう屋」の主人公、成瀬将虎は、蓬莱倶楽部という霊感商法の会社が関わっているとおぼしき事件を探ることになる、というのが大きな筋。そこに、運命的な出会いをした麻宮さくらとの恋愛もあり、様々なエピソードありで話が進む。こんな小説です。
 注意点としては、あまり書評や感想を読んだり聞いたりせずにまず読んでみることだと思う。また、本自体も最初からきちんと読んだ方がいい。

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2002年7月21日(日) 久々に推理小説を続けて読んだので

 border=0 歌野晶午『館という名の楽園で』(2002年,祥伝社文庫)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 祥伝社文庫では、400円の「書き下ろしエンターテインメント中編小説シリーズ」 を出している。これもそのシリーズのひとつ。
 20年程前の「新本格推理小説」ムーブメント※1の際に多く書かれた、「奇妙な構 造の館で起こる殺人事件」というテーマを用いた推理小説。
※1 1980年代末から1990年代、そして現在にいたるまで、講談社ノベルスを中心に新人による書 下ろし推理小説が盛んに出版された。それらを「新本格推理小説」とひとつのジャンルにくくって呼んで いた。初期は、エラリー・クイーンやディクスン・カーのようなトリックや犯人の意外性を主とした小説が多かった。まあ、定義は難しい。
 ちなみに歌野氏も、「新本格推理小説」の書き手としてデビューした。当時は『長い家の殺人』『白い家の殺人』『動く家の殺人』(いずれも講談社文庫)という大掛かりなトリックを用いた三部作を書いているが、それを思い出させてくれる。この小説 のトリックも、なかなかに大きい。
 ただ、トリックや犯人が明かされた後、更に続きがある。この部分が悲しい。
 短い話の中に、いろいろなものが凝縮されている。ただ、もっと長い話になれば また違った魅力も出てくるのではないか、とも思った。

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2007.05.12(土)「追求すること」のうらやましさ

VANストーリーズ―石津謙介とアイビーの時代 宇田川 悟『VANストーリーズ 石津謙介とアイビーの時代』(2006.12,集英社新書,\714)Amazon.co.jpbk1楽天ブックス

 VANの創業者、故石津謙介氏の評伝であり、VANというブランド、ヴァンヂャケットという会社の盛衰の記録。著者は、長くパリに在住し、経営者を退いた後の石津の友人だった。

 私はVANの世代ではないのですが、この本を読んで、石津氏の人間としての魅力を強く感じた。
 なにしろ、大きな挫折がいくつもありながら、それを乗り越えて御年93歳まで活動されたというのがまずすごい。大きな挫折というのは、具体的には下記のとおり「人生で三度、無一文になった」(p.203)のである。
「一度目は戦時下における紙統制で生家の『紙石津』を閉めた時。
 二度目は敗戦で天津からリュックひとつで命からがら引き上げてきたとき。
 三度目はVANが倒産したとき」(p.203)
 それでも、その都度そこから新たな道に進んでいく。そこに強いバイタリティを感じるなあ。その力の源には、ファッションに対する強い意志(というか欲望というか)があったのだろうと思う。例えば小学生の頃に、気に入った制服を着たい、という理由で学校を替えてしまったのだから、幼い頃から思いは一貫していたようだ。
 また、兄が家業を継ぐことを拒否したため、三年間東京の短期大学に通った後に故郷岡山に戻ることを余儀なくされた石津氏が、東京で遊びに遊んだ話も、ある種鬼気迫るような雰囲気がある。東京に出てすぐ、「当時のお金で五五円というから、大学の先生の給料の半分程度」(p.46)で背広をつくったり、中古ではあるが外車を購入し、その費用の返済のために届出を出して個人タクシーを営業したり。
 その後故郷に戻り、家業の紙問屋を継ぎながら道楽に精を出すのだが、紙統制により店をたたみ、中国の天津で洋服の卸と小売の会社に勤めることになる。そこで営業・宣伝の担当者として活躍するも、日本の敗戦で帰国。そして、空襲で家も仕事もなくなった故郷岡山で、GHQの物資を引き出して販売する会社で働き、転職してレナウン研究室で服のデザインに携わり、いよいよ昭和26年にVANの前身である石津商店を起業して独立する。

 こうした石津氏の活動を読んでいると、この人はひたすら前進する時は強かったのだなあと思う。上に書いたような出来事も、月並みな言い方かもしれないが波乱万丈という感じだ。それでもとにかく乗り越えて乗り切っていく。
 だが逆に、例えばVANが大きな会社になった時のように、ある程度成功した時にそれを維持していく、あるいは更に大きくしていくためにどうすればいいか、という点では、弱かったのかなあと思う。この本でも「社長になってはいけない人物が、運命のいたずらでたまたまトップになってしまった」(pp.184-185)とか、「当時の社員に話を聞くと、意外にも石津社長の能力に疑問を抱いていた人がほとんどだった」(p.183)という評価がされている。またVANの資金不足を解消するために商社の資本と人材を導入し、最終的に倒産に至ったという現実もあった。
 それでも、VANの整理が終わった後は、執筆や講演を行い、「信念をもって、見栄を張らず、『貧』を悠々と楽しもう」(p.202)、「まあ、お金がなくても暢気にやろう」(p.202)という「悠貧」の考えで残りの人生を過ごされたようだ。もちろん「貧」といっても、それまでの経営者としての生活に比べたら、ということだとは思いますけれどね。ファッションや食事には、ずっとこだわりを持たれていたようですし。

 人によって、石津氏についての思いは様々だろうと思う。コシノジュンコ氏は石津氏について「悪口をいう人は誰もいません」(p.201)とコメントしているが、そう思わない人もいるだろう。ただ私は、石津氏のように自分の求めるものを持ち続け、追求し続ける生き方はうらやましいと思うし、ひとつの理想としたいと思う。

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2009.02.09(月) 律儀過ぎて滑稽

内田 百間『内田百間集成 14 居候匆々』(ちくま文庫)
出版 : 筑摩書房 発行年月 : 2003.11
 オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス

 「居候匆々」は「いそうろうそうそう」と読む。ちなみに「匆」は「勹の中に夕」で表記されている。念のため書いておくと、内田百間の「間」は正しくは「門の中に月」。いずれもパソコンでは正しく表示されないことがあるので、別の字を使っています。

 「居候匆々」と「王様の背中」の二編が収録されている。

 「居候匆々」は、昭和十一年に時事新報の夕刊に連載された小説。大学の先生の家に居候をする書生、という形を借りて、大学の先生や学内の政治を描いている。ちょっと『我輩は猫である』を思い出させるような内容。

 話の中には、百間先生のユーモアと恐さが随所に登場する。例えば、蕎麦屋で天丼を三杯食べて、店先で首をくくった男をめぐる議論(p.39)とか、先生の飼い猫が産んだ赤ん坊猫を捨てに行くよう命じられる場面(pp.74-76)とか。特に赤ん坊猫のくだりは、先生の奥さんがやけに割り切った物言いなのが余計怖い。

 そんな出来事が起こりつつ、学校でも先生の家庭でも問題が持ち上がり、語り手の書生万成君も巻き込まれていく。さあ、これからどうなる! というところで、とんでもないことが起こる。
 詳しくは結末を明かしてしまうことになるので書けないが、物語は「それかよ!」と思うような終わり方をする。百間先生は、特に随筆を読むと律儀過ぎて笑ってしまうことがあるのだが、この物語にもその律儀さが表われている。

 文庫本で150ページくらいの中編なので、気になる方はぜひ実際に読んでいただきたい(文庫版の解説では結末についても触れられているので、本編を読んだ後で読みましょう)。

 併録されている「王様の背中」は、百間先生による「序」で「教訓はなんにも含まれて居りませんから、皆さんは安心して読んでください」(p.156)と書いているが、童話のような落語のような短い話が数編収録されている。もとは昭和四年「コドモノクニ」、「大阪朝日新聞」に掲載されたもの。こちらもユーモアにあふれている。

 「居候匆々」も「王様の背中」も、谷中安規氏の挿絵(版画)も同時に収録されていて、これも独特な画風で、本の雰囲気を形作っている(なお、「王様の背中」の中の「コドモノクニ」収録版は武井武雄氏挿絵だったようで、これは初出誌版も掲載されている)。

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2007年4月20日(金) 不気味さの快感

 内田 百間『東京日記』(岩波文庫)Amazon.co.jpbk1楽天ブックス
(※内田百間の「間」は、正確には「門」の中は「月」ですが、表示されない場合もあるようなので、「間」と表記します)
 下記七編を収録。

 「青炎抄」は五編の短い話から、「東京日記」も二十三編の短いエピソードからなる物語。

 私は内田百間の本は、これまで随筆ばかり読んでいて、小説は読んでいなかった。随筆には、ご本人が大真面目なのに、なんだか笑ってしまうような、なんとも言えないユーモアがあって好きなのですが、小説も面白かった。
 小説は、随筆とは雰囲気が一変して、幻想的・怪奇的な雰囲気が漂う。とはいえ、いわゆるホラーとかスプラッタのような直接的な怖さや痛さではなく、不気味で不思議な感じ。「薄ら寒くなる」とでも言えばいいのか。

 例えば「青炎抄」の中の「桑屋敷」(pp.85-94)では、とある女先生の奇行を描いている。なんともいえない緊張感のある文章なのだが、中でも印象的なのは次の部分。
 子ども達に、「幽霊はいない」という話をするのだが、「生徒の方では、そのお話よりも、お話をしてくれる先生の方が恐ろしかった」(p.91)ので、泣き出す子どもも出てくる。そこで先生は、「今度はおもしろい、おかしいお話をしてあげましょうね」(p.91)と言って、雨の晩に、とある家を狙おうとする虎と狼の話をする。その家の中で、「ほんとに、もる程こわい物はない、虎狼より、もるがこわい」と雨漏りを心配する声が聞こえて、虎も狼も逃げてしまったという話。
 先生は「虎狼より『もる』がこわい。ほほほ。『もる』って、どんなけだものでしょうねえ。ほほほ、ほほほ」(p.91)と笑うのだが、子どもは泣き続けている。
 なんでもないといえばなんでもない場面なのだが、私はすごく不気味に感じた。

 それから「東京日記」は、題名のとおり東京の実在する地名や建物が登場するのだが、起こる出来事が奇妙なので、その落差がより幻想的な雰囲気を感じさせる。例えば、最初の「その一」(pp.121-123)からして、皇居のお濠から「牛の胴体よりももっと大きな鰻」(p.122)が日比谷から銀座の数寄屋橋へと道路を這って行き、更にその後に建物の壁を「二寸か三寸ばかりの小さな鰻」(p.123)が這い上がろうとする話なのである。他にも、ある日突然丸ビルが消えて、でも別の日には何事もなかったかのように現れている話(その四、pp.127-130)や、日比谷の公会堂での音楽会で、演奏者とバイオリンが曲の様子に合わせて大きくなったり小さくなったりする話(その十六、pp.157-159)など、光景が目に浮かぶような話が多くて、面白い。

 人によっては文章を難しいと感じるかもしれないが、ひとまず「東京日記」から読み始めると、面白さを感じることができるのではないかと思います。

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2004.8.30(月) 色あせない面白さ

百鬼園随筆 (新潮文庫) 内田百間(正しくは門に耳)『百鬼園随筆』(2002年,新潮文庫)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 作家内田百闔≠フ、最初の随筆集。もともとは昭和八年の刊行。「短章二十二 編」、「貧乏五色揚」、「七草雑炊」の三章からなる。
 読んでいると、文章からユーモアがにじみ出しているのを感じる。現在のユーモア エッセイで言えば土屋賢二氏がやや近い雰囲気を持っている。どうでもいいと言え ばどうでもいい話が多いのだが、面白いのである。
 例えば「短章二十二編」の中の「風呂敷包」(pp.51-55)は、ドイツ語の教師なの に、わざわざドイツ語を話すのが面倒なので通訳をつけてもらう話。この時点で既 に面白いのだが、通訳が間違ったドイツ語を話したのを聞いて、思わず訂正してし まい、「云った後で、しまったと気がついた時には、通訳の人も、独逸人も、私の顔 を見て、変な表情をしていた」(p.53)というような目にあってしまう。
 「貧乏五色揚」は借金に関する話を集めた章。金を借りることの怖さを感じさせる 話もある。高利貸しに金を借りに行く「地獄の門」(pp.173-203)や借金の取立人を 主人公にした「債鬼」(pp.204-225)などは、短編小説のような話。
 一方で、同じ借金をテーマにしていても、「間抜けの実在に関する文献」(pp.250- 270)は、面白い。友人に勝手に印鑑を使われて借りられた金について、返済期限 の延期を頼みに行くが、同姓の別の人に話をしてしまう。
 その他にも、色々と紹介したい部分はあるが、長くなってしまうし読む人の楽しみ を奪ってしまうのでこの辺で。さすがに、出てくる漢字や言葉遣いには難しい部分も あるが、慣れてしまえば大丈夫でしょう。

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2008-05-27(火) 混沌として、それゆえ情熱にあふれた日本のアマチュアサッカーの今

宇都宮 徹壱『股旅フットボール―地域リーグから見たJリーグ「百年構想」の光と影』(東邦出版) オンライン書店bk1Amazon.co.jp楽天ブックス

 日本各地でサッカーの地域リーグを取材したノンフィクション。

 まず、「地域リーグ」とはなにか、ということを書いておく。日本のサッカーリーグは、トップにJリーグディビジョン1(J1)、その下にディビジョン2(J2)がある。ここまでがプロのリーグ。その下に、アマチュアの全国リーグとしてJFLというリーグがある。ここには、Jリーグ昇格を目標とするチーム、企業・大学のサッカー部、Jリーグクラブの下部組織であるアマチュアチームなどが参加している。
 その下、J1から数えて4部に相当するのが、全国を9つの地域に分けた地域リーグである(その下には、各都道府県のリーグが存在する)。

 では、著者はなぜ4部リーグを取材したのか。まず「その国のフットボール文化は、下部リーグにこそ現れるのではないか−−」(p.11)という仮説を確かめたかったという。著者はヨーロッパ各国の3部・4部のリーグを見て、国ごとの差がなくなりつつあるトップリーグに比べ、より強くその国らしさを感じた。そこで、日本もそうではないのかという考えが、取材を始めたきっかけだったという。

 しかし取材を続ける中で、地域リーグを戦うクラブチームが、試合でもそれ以外の部分でも激動の時代に活動していることが分かってきた。
 例えば、地域リーグからJFLへ、そしてJ2へ、理論上は、2シーズンでクラブがJリーグへ昇格できる。そのため、自分たちの街からJリーグのチームをという活動は、活発に行われている。しかし現実はそれほどうまくいかない。なぜなら、実は地域リーグからJFLへという「わが国における4部から3部への昇格は、J2からJ1、あるいはJFLからJ2への昇格と比べて、はるかに過酷で、時に理不尽」(p.13)な戦いだから。
 また、日本各地にスポーツクラブ・施設をつくるというJリーグの「百年構想」に則ってJリーグクラブを目指すのか、あるいはアマチュアとして地道な活動をしていくのか。この選択も悩ましい。クラブチームが大きくなることにはコストやリスクも伴う。中には、Jリーグを目指す途中で消滅してしまうクラブも存在する。
 しかし、そうしたアマチュアリーグの状況が紹介されることは少ない。そこで「身近であるがゆえに気付かなかった『百年構想』の光と影を、可能な限り描き出すつもり」(p.15)で書かれたのがこの本。

 登場するチームは、Jリーグを時々見るくらいの人には、聞いたことのない名前ばかりかもしれない。この本で取り上げられたチーム名をあえて全部挙げてみます。グルージャ盛岡、V・ファーレン長崎、ファジアーノ岡山FC、ツエーゲン金沢、カマタマーレ讃岐、FC岐阜、FC Mi-Oびわこ Kusatsu、FC町田ゼルビア、ノルブリッツ北海道FC、とかちフェアスカイ ジェネシス(ちなみにこのうち、FC岐阜は2007年にJFLへ、2008年にはJ2への加入を果たした。ファジアーノ岡山とFC Mi-Oびわこ Kusatsuも2008年にJFLへ昇格した)。
 私も、いくつかのチームの名前を聞いたことはあったが、どのようなチームなのかはほとんど知らなかった。

 しかし、そのくらいの認識の私が読んでも、この本は非常に面白かった。印象的だったことのひとつは、自分の生まれ故郷のクラブチームに強い愛着を持つ人たちの思い。彼らが、素直にうらやましいと思う。私が生まれ育ち、今も暮らす東京都にも、Jリーグのチームがふたつある。しかし、いずれもホームスタジアムが西方にあり、また東京都の大きさから、どうしても地元のチームという意識が持てない。せめて電車で一時間以内のスタジアムをホームとするチームがあれば、という思いは強い。
 もちろん、現在Jリーグで戦うチームを応援するサポーターも素晴らしい。でも、生まれ育った街のチームをJリーグに昇格させるため、困難な道に挑み、奔走する人たちの情熱もまた、素晴らしいと思う。

 そしてもうひとつ、(皮肉なことに)「過酷で、時に理不尽」な地域リーグからJFLへの昇格のルールが生むドラマが心に残る。JFLへの昇格を決める大会は、毎年11月から12月に行われる「全国地域リーグ決勝大会」(以下、「地域決勝」)。この大会が、JFLへの(ということはJリーグへの)登竜門となる大会なのだが、大会の運営方法にかつてのアマチュアの大会の名残があり、それが参加したチームに悲喜こもごもを起こす。
 それはどんな大会なのか、毎年少しずつルールが変わるので、この本で紹介されている第30回(2006年)、第31回(2007年)の地域決勝を例に紹介する。

 地域決勝へ出場できるのは、各地域リーグの優勝チーム。それから、前年の地域決勝でベスト4に残った地域リーグの2位のチーム。更に、各地域リーグの代表によるトーナメント戦「全国社会人サッカー選手権大会」(全社)の優勝チーム(他にもこれ以外のチームが例外的に参加できる場合もあるが、説明が複雑になるので割愛)。したがって、地域のレベルによっては、強豪チームが地域決勝にすら進めないことがある。特に北信越リーグ1部は、2006年の時点で8チームが存在し、そのうち4チームがJリーグ入りを目指している。それだけ実力も拮抗するわけで、まずここで勝たないとJFL昇格をかけた大会に出ることすらできない。この状況は、「地域リーグファンの間で『地獄の北信越』と呼ばれる」(p.104)らしい。
 また10月に行われる全社は、地域リーグで出場権を獲得できなかったチームが地域決勝へ出場する最後のチャンスだが、この大会も、参加32チームが5日間連続でトーナメントを戦う「国内のあらゆるカテゴリーの中で最も過酷なトーナメント戦」(P.239)なのである。

 このように、地域決勝は所属する地域リーグによっては参加するだけで大変な大会なのだが、この大会を勝ち抜くのは更に困難である。

 参加チームは4組に分かれて1次リーグを戦い、各組1位が決勝リーグを戦う。しかし、毎年の参加チーム数が流動的で、この4組のチーム数が同じにならない。例えば2006年は1組だけ4チーム、残り3組が3チーム、2007年は4チームの組と3チームの組が2つずつとなった。1次リーグ、決勝リーグとも3日連続でひとつの会場で行われるので、1次リーグでは3日間続けて試合を行うチームも出てくるし、決勝リーグは必ず3日続けての連戦になる。
 さらに、地域決勝は同点で90分を終了するとPK戦を行い、PK勝利に勝ち点2、PK負けに勝ち点1が与えられる(90分での勝利は勝ち点3、敗北は勝ち点0)。この勝ち点の設定には、勝利数と勝ち点数が必ずしも一致しないという問題点がある。
 もうひとつ。地域決勝で何位になればJFLに昇格できるのか。これは「JFL次第」なのである。JFLからJリーグに昇格するチームの数や、JFL内でのクラブの撤退や合併によって変わってくる。

 このように複雑で、勝ち抜くのが困難な大会ゆえに、贔屓のチームがない立場から見ると、非常にドラマティックな大会になる。もちろん、チームのサポーター、関係者、なにより選手や監督にとっては、ものすごいプレッシャーのかかる試合だろう。2007年の大会は、決勝リーグの最終戦まで順位が入れ替わり、JFLの結果も相まって、得失点差で昇格するチームが決まった。この様子は、読んでいてこの大会を観戦してみたかった、という気持ちになった。

 この本を読み終えて、もうひとつ思ったこと。それは、この本に記録された約2年半は、日本のアマチュアサッカーリーグの過渡期の姿を描いた、貴重な記録になるだろうということ。おそらく、現在の地域リーグ・JFL・Jリーグ間の昇格・降格システムは、近い将来変わっていくだろう。それだけ、Jリーグへの参入を目指すチームにも、Jリーグは目指さずに地域に根ざしたクラブ、アマチュアとしての存続を考えているチームにも、問題の多いシステムだと思う。例えば、JFLで活動するだけの資金がない(全国リーグになると、遠征の費用ひとつを取っても地域リーグとは比較にならない)など、JFLではなく地域リーグで活動することにメリットがあるチームもあるだろう。そうしたチームはどうやって活動していくべきなのか。また、現在は一定数まではJ2のチーム数を増やす計画があるため、J2リーグからJFLへの降格がない。チームの経営状況によっては、これも必ずしも望ましくない。

 こうした状況は、少しずつだが変わっていくだろう。しかし、Jリーグを目指す熱気が各地で沸騰し、その流れに乗ってチームもリーグの形式も変わっていく間の、混沌とした時期として、ここ数年、そして何年か先までの地域リーグは記憶されるべきだと思う。その時期の地域リーグに光を当てたこの本も、後々まで読まれるべきだと思う。

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2003年11月29日(土) 知的生産の原点の1冊

知的生産の技術 (岩波新書) 梅棹忠夫『知的生産の技術』(1969年,岩波新書)Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天ブックス

 勉強法とか知的生活に関する本の中では、いわずと知れた有名な一冊。著者の 考案したカード方式なんていうのは、聞いたことがある人が多いと思う。最近勉強 法の本を続けて読んでいて、この本も読んでおかねばと思って読んだのだ。
 しかし今読むと、むしろ日本語用のタイプライターを待望した著者の思いというも のが非常に興味深い。英字タイプ→カタカナタイプ→ひらかなタイプと使ってきた著 者が、日本語で大量の文章を書くためには日本語のかな漢字が表示できるタイプ ライターが必要だと提案している。今それが、ワープロ、パソコンとして現実のもの となっている。今から30年以上前にワープロと同じようなものの必要性を考えてい た著者には、先見の明があったと俺は思う。
 他にも、今読むとたしかに古いのだが、それでも新しい発見も多かった。例えば 「大学ノートの罫の幅はなにが基準なのか」。著者が調べてもわからなかったらし い。俺もネットで調べてみたが、それらしき情報は見つからなかった。それから、整 理整頓が必要なのは探すいらいらをなくすためであるとか、本を読むときは面白い ところと大事だと思うところに別の色で線を引くといいとか、原稿や手紙を送る前に はコピーをとった方がいいとか、これが元になって書かれた本も多いんだろうなあ と思わされる箇所が随所に見られた。
 自分がものを考えたり書いたりする上で、参考になりそうなところが多かった。

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2008.09.29(月) 20年前の本にも、ヒントはある

私の知的生産の技術02 梅棹忠夫『私の知的生産の技術』(1988年、岩波新書・新赤版別冊3)

 岩波新書創刊50年を記念し、「私の知的生産の技術」というテーマで募集した論文から入選作を収録した本。梅棹忠夫氏の文章は、巻頭の「『知的生産の技術』その後」のみ。
 ただ、この「『知的生産の技術』その後」には知的生産を考える上で参考になる点がある。まず、『知的生産の技術』に書いてあることを実行して、うまくいかなかった人の共通点である。共通点とは下記の三つ。

1.「カードに情報を記入して蓄積しようとすること」(p.4)。「読書カードをつくるときにかくべき内容は、読書によって誘発された自分のひらめきや着想」(p.4)なのである。
2.「情報をむやみに収集すること」(p.4)。「情報は、はっきりした目的あるいは意図であつめたものでなければ意味をなさない」(p.4)。
3.「分類の失敗」(p.4)。「必要な情報が必要なときにとりだせるようにするには、カードやファイルを内容によって分類するよりも、表題をアルファベット順などの方法で配列するほうがよい」(p.4)。

 それから、『知的生活の技術』で取り上げているのは「能率の問題ではない。それはむしろ精神衛生の問題なのだ。いかにして人間の心にしずけさと、ゆとりをあたえるかという技術の問題なのである」(p.17)。これは、いまのいわゆるライフハック(いかに仕事の効率を上げてストレスを減らすか)の元になっている考え方だろう。

 収録された論文は、テーマは同じながらだいぶ性格が異なる。「私の知的生産の技術」というよりも、「私の知的生活」という内容の文章が多い。それぞれの方の知的生活を読む、という点では興味深いが、自分の生活に取り入れるのは少し難しいかもしれない。

 ただ、その中でも参考になる論文はある。例えば、当時の時点で手書きカードからワープロへ切り替えた方は、その理由を下記の項目が可能であるからという。
1.保存
2.検索
3.呼出し
4.組み合わせ
5.新しい情報を再生する

(pp.58-59)
 これは、デジタルに情報を蓄積する利点として、今でも通用する特徴だろう。

 それから、索引をつくって、必要な情報を取り出すことの重要性を述べている方も二人いる(p.100、pp.159-160)。検索が可能なデジタルデータでは必要性が低いが、アナログのデータでは重要になるだろう。

 他に、専業主婦の方の論文が二本あって、この内容も興味深かった。家事労働に知的生産の技術を導入し、効率的に行い、いかに自分の時間を確保するかという内容。必要に迫られての工夫だけに、非常にうまいと感じた。例えば一人の方は、食事の献立(レシピ)をデータベース化して、献立の予定を立て、それにあわせて食材のまとめ買いをしたり、家事の予定・チェックリストをシステム手帳で作成したりしている。もう一人の方は、常にエプロンをしてメモやペンを持ち歩いていたり、小さな和机を使ってどこでも自分の場所にできるようにしたりしている。

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2009.07.13-17

植木 等『夢を食いつづけた男―おやじ徹誠一代記』(1987年・朝日文庫) Amazon.co.jpオンライン書店bk1楽天市場

 植木等氏による、父植木徹之助(徹誠)についての回想。実際に執筆しているのは当時の朝日新聞の編集委員の方。

 植木徹之助は、若い頃にキリスト教の洗礼を受けるのだが、後に僧侶になる。その間にも、一貫して社会活動(労働闘争・部落解放運動)に関わる。一方で義太夫が足りを志したこともあったという。生まれは明治28年、亡くなったのは昭和53年、関東大震災や太平洋戦争も経験した。

 この本で語られる植木等氏の半生も密度が濃くて興味深いが(僧侶の修行をしていながら、大学卒業時に芸能界入りしている)、父上の一生はそれ以上と言っていいくらい密度が濃く、興味深い。

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